てぃーだブログ › 沖縄一周独り歩き(しおちゃんブログ)

2024年05月18日

銀婚式を迎えて

全ての人に感謝

 世紀末の1999年3月12日
西武オリオンホテルで結納を執り行い、
5月8日に沖縄ハーバービューホテルの
結婚披露宴を多くの招待客に祝福された。

 記憶は定かでは無いが、4月末の休日だった
ので多分昭和の日だったと思う。

 自宅から国際通りを歩いていると
パレット前交差点でテレビカメラを持った
NHKスタッフがカメラを差し向け
声をかけて来たが、照れ臭いので
無視を決めて素通りしようと思った瞬間
「サミットが沖縄に決定しました」の声に
一瞬驚いて「沖縄に決まったんですか?」
と立ち止まるとしおちゃんの前に
インタビュアーとカメラが立ち塞がった。

 人生初の街頭インタビュー体験は、
そんな感じで、二人の言葉と身のこなしに
流石と変な関心を持ちながら内心やられたとも
思っていた。

色々聞かれたが、しおちゃんは、
2000年サミットの沖縄開催決定に
沖縄県民の一人として身震いする程
感動感激した。

 当時の小渕恵三総理大臣は、幾つかの
候補地の中で沖縄開催を強く望んでいたと
報道を通じて知ってはいたが、総理は
脳梗塞で倒れ危険な状態だとも知っていたので
この時期の決定に決定の判断決定を下した
政治家に感謝の気持ちでいっぱいに
なった。

 マイクを差し向けられ感謝感動感激の
気持ちいっぱいで答えていると
米軍基地問題を緩和する意図があるとは
思いませんか?と言ったニュアンスの
質問があった。

「基地問題がどうのこうのは、
私にとっては全く関係ありません」
と答えて
「沖縄は、歴史的に色々あったので
新世紀のスタートに世界首脳が集まる
サミットが開催される事は、素晴らしい」
と素直な心境を言葉にした。

 沖縄サミット開催を強く望んでいた
小渕恵三氏は、沖縄本土記念日前日の
5月14日に黄泉の国に旅立った。

 あれから25年しおちゃんは、
今年、銀婚式を迎える事が出来た。

 結婚披露宴の最後に新郎挨拶の
マイクを持った冒頭で
「私事で大変申し訳ですが」
と招待客に断った上で
「私と結婚してくれてありがとう」
と言葉にした。

 原稿も準備してなく予想外な言葉が
口に出たので自分でもビックリしながらも
素直な本心であった。

 25年の歳月は、山あり谷ありだったが、
妻の存在のお陰で二人の子宝に恵まれ
今年成人式を迎えた息子が未だ大学生とは言え
海外で働く娘共々立派な人間に成長
している。

 悩ましい問題を抱えているとは言え
しおちゃんは、結婚当初からずっと
妻に支えられ父親としての幸福感を
満喫している。

 25年前披露宴会場で祝ってくれた中に
残念ながらこの世に存在しない招待客が
何名か居る。

 しおちゃんの親父、妻の母親、
親戚縁者、血の繋がらない兄貴分、可愛い後輩
当時懇意にしていた大先輩達と
今指折り数えるだけでも20名以上浮かぶので
もしかしたら50名か以上の方が、
亡くなっているのかも知れない。

 しおちゃんは、亡くなられた故人の
ご冥福をお祈りを捧げると共に
ご招待客と夫婦の結婚式を成功する為に
ご尽力したホテルスタッフと当時
しおちゃんを支えてくれた全ての人に
この場を借りて感謝の気持ちを伝えたい。

 お陰様で、家族4人全員が
自分の夢を持って日々幸せに暮らす事が
出来ています。

 これもひとえに皆さんの祝福が
あったからだと思います。

 25年前の結婚披露宴に駆けつけて
くれた皆さんに心から感謝の意を伝えます。

皆さん祝福があったからこそ
銀婚式を迎える事が出来ました。
ありがとうございます。

忠心より
感謝🥲感動🥹感激🥹

 しおちゃん夫婦の次なる
人生目標は、心身共に健康で
金婚式を迎える事です。

次回 人生節目の存在(政治家編)






 
  


Posted by しおちゃん at 06:42Comments(0)ファミリー

2024年05月15日

本土復帰52年②


令和六年一月(辺戸岬)

沖縄返還の本土復帰は荷重負担の始まり⁉️

 1972年5月15日しおちゃんは、
那覇市立城東小学校の3年4組の生徒だった。

 記憶は定かではないが、この日は
雨が降っており学校は休みだった気がする。

 復帰の日の街頭は、あちらこちらに
国旗がなびいていた。

 しおちゃんは、戦後18年目に生まれ
琉球政府の国籍で、9歳にして晴れて
日本国籍を取得した。

 当時の戸籍謄本の証明がどうだったのか
知る由もないが気になるところではある。

 現在の戸籍謄本は、全て印字されているが、
ちょっと前までは、手書きの文字になっていたのに
いつの間にか今のカタチになっている。

 アメリカ統治下の琉球政府時代には、
アメリカ合衆国大統領の承認を得て国防長官が、
現役アメリカ陸軍将校から任命された
強大な権限を持つ高等弁務官が琉球政府の政治に
大きな影響を与えていた。

 沖縄が日本返還された事により
第6代のランバート高等弁務官が退任したので
沖縄行政は、アメリカ軍人から沖縄人の政治家が
取り戻した記念日なのかもしれない。

 1609年の薩摩侵攻から長い月日が
流れやっと自立した平和で平穏な
郷土を取り戻したと県民は信じて
いたのかも知れない。

 沖縄がアメリカ統治下時代に締結された
日米安保条約には、日本防衛の施設として
米軍施設の土地を提供する事が約束されていた。

 50年安保、60年安保締結時の沖縄は、
日本ではないので日米安保条約の枠組みには、
入っていないので本土の米軍基地負担は、
それなりにあった。

 沖縄の本土復帰以降本土の米軍基地は
整理縮小された現実がある。

 本土復帰して県民が望んでいた
米軍基地撤去は、沖縄では無く
北海道稚内の米軍基地撤去から
始まった。

 本土復帰前の1969年沖縄の歴史上初の公選で
行政主席となった屋良朝苗主席は、
日本返還された最初の沖縄県知事選挙でも
「米軍基地即時返還」を公約として
沖縄県民に選べられた沖縄県知事だった。

 今朝の新聞によると5月15日が
本土復帰記念日を知らない世代が増えていると
報道されていた。

 沖縄で生まれ育ち日本国沖縄県民として
人生の大事な証として結婚式は、
沖縄を代表する農産物ゴーヤーの日である
5月8日で戸籍上の結婚記念日は5月15日の
復帰記念日を意識した。

 アメリカ軍統治下の27年を超えた
普天間基地返還合意から今年で29年を迎えて
いるが、しおちゃんは橋下モンデール会談を
鮮明に覚えている。

 沖縄県民は、復帰52年戦後79年経っても
もやもやした悩ましい苦難の歴史時間を
歩んでいる。

 もっと言えば1609年の江戸幕府薩摩藩による
琉球侵攻、1972年の琉球処分による琉球藩、
1879年の沖縄県制定から沖縄の政治は
自立できないと言うか常にアメリカを意識する
日本政府の掌で操られているのかもしれない。

 この悩ましい沖縄の心の問題を解決するには
国防を他国に頼るのではなく自国防衛にする
憲法改正が一番だと考える。

 全国にある警察組織が、その地域の治安維持に
務める様に平和な国家基盤を保つ為には
戦争をしないための軍隊が必要だと
考える事は、悪いことだとは思わない。

  不安定な国境を抱える沖縄県の地理的状況を
考えるならば日本政府が進める自衛隊配備の動きは
当たり前だとも思っている。

 ただ、沖縄で生まれ育った一人として
現在の普天間基地移設問題は釈然としないのが
正直な気持ちでもある。

 元沖縄県知事の西銘順治氏は沖縄の心は?
と問われ
「大和人になりたくても、なりきれない心」
だと答えた。

 しおちゃんは、本土復帰後の公選で選ばれた
歴代の知事全員を支持しているし誇りにも思っている。

 なぜならば、その時々の
沖縄県民の信認を得て選ばれた
沖縄県知事だからである。

 確かに自分が投票した候補者が選ばれなかった事も
あるが、現行の日本憲法で定められた公職選挙で
決定された代表だから当選した県知事を
県民として是々非々で応援するのは
当たり前の事だと思う。

 現在の沖縄社会は、過去の歴史に囚われ
未来を憂い過ぎて人生にとって一番大事な
現時点の時間を無駄にしているのかもしれない。

 しおちゃんは、協力な政治リーダーの誕生を
切に願っている。

 悩ましい沖縄問題を解決するには
沖縄県選出の総理大臣誕生を願っていたが
60代のなった現在、その可能性が低いとは言え
確立は、ゼロではないと信じている。

 関ヶ原で敗軍になり外様となった長州藩は
薩摩と共に討幕の偉業を発揮し以降多くの
総理大臣を誕生させた。
 
 薩摩の西郷隆盛、大久保利通は
島津成彬の影響により存在感を発揮した。

 幕末から明治新政府で活躍した
人物に大きな影響を与えた吉田松陰が
長州には存在した。

 29年の人生だったが、
日本人に愛されている偉人を代表する
人物である。
しおちゃんの人生で総理大臣の誕生が
難しいのであれば、せめて吉田松陰の
沖縄版の存在が現れる事が未来の
子や孫の世代に大きな財産を残せると
沖縄の未来を妄想している。

 日本最北端の街、稚内市には戦後米軍が駐留する
苦難の体験を沖縄と同じように共有していた。

 稚内の米軍基地撤退は、沖縄が本土復帰した
1972年の6月30日アメリカ行政の年度末最終日と
なっている。

 宗谷岬平和公園にある世界平和の鐘は、
年6回の鐘打ち式で平和を願い戦争や事故で
犠牲になった御霊を鎮魂する儀式がある。
① 6月23日「沖縄戦慰霊の日」
② 8月15日「終戦記念日」
③ 8月20日「九人の乙女の碑」
④ 9月1日「大韓航空機遭難慰霊の日」
⑤ 9月21日「国連国際平和の日」
⑥ 1月1日「新年」

宗谷岬平和公園に初めて足を運んだ日に
北海道新聞の記者に公園内を案内してもらい
この地にまつわる歴史を聞いた。

 年に六回ある鐘打ち式に沖縄慰霊の日が
どうして加わっているのか疑問に感じていたが、
その謎がようやく解けたように思う。

 沖縄は、27年に及ぶアメリカ統治下の時代が
あったとはいえ本土復帰を果たし今年52回目の
記念日を迎えた。

 北方領土は戦後79年を経ても
何の解決もなくいたずらに時間だけが過ぎている。

次回 戦後生まれのしおちゃん

昨年のブログ
https://shiokawa.ti-da.net/e12508378.html  続きを読む


Posted by しおちゃん at 22:25Comments(0)沖縄未来妄想図

2024年05月13日

本土復帰52年

沖縄本土復帰52周年

 5月15日は、琉球政府から日本政府
の沖縄県として復帰した記念日である。

 独立国だった琉球王府時代から
1872年6月7日琉球国から琉球藩に代わり
1879年3月27日に明治政府から沖縄県の
名称が言い渡された。

 時代を遡れば、三山時代の
戦国の世を経て1429年から
1879年の450年間を琉球王国時代と
なっているが、1609年3月7日〜
4月5日(29日間)薩摩による琉球侵攻
から江戸幕府の薩摩藩による植民地として
270年の時代だった。

 明治新政府が誕生したのが1868年4月6日、
廃藩置県が施行されたのが1871年7月14日、
沖縄県が施行されたのが、1879年なので
琉球国は、江戸幕府の薩摩支配から明治新政府に
引き継がれた形は日本による植民地だったと言える。

 1895年4月17日の日清講和条約により朝鮮独立と
台湾の割譲を認めさせ台湾が正式に日本となり
先の敗戦まで沖縄と台湾は日本国だった。

 戦後沖縄県は、27年間もアメリカの施政権に
置かれ台湾と中国は領土問題を争っている。

 尖閣諸島を含んだ悩ましい領土問題と
中国と台湾の国家問題が、台湾有事と
呼ばれ不安を生んでいる。

 沖縄の主権は1609年の薩摩侵攻から
1972年本土復帰まで実在していなかった。

 明治から終戦までの沖縄県知事は
日本政府の指名による官選知事で
本土復帰前の1968年12月1日の史上初の
公選選挙で屋良朝苗行政主席が誕生し
1972年の本土復帰により屋良朝苗沖縄県知事が
誕生した。

 屋良朝苗知事の誕生は、沖縄の歴史上、
民主主義の選挙で初めて選ばれた行政最高責任者
なのである。

 当時の屋良朝苗知事は、沖縄の本土復帰は
戦争の負の遺産である米軍基地の即時全面撤去を
訴えて大多数の沖縄県民の胸の内は願い
信じていたと思う。

 沖縄の歴史は、1609年の江戸幕府薩摩藩による
侵略から現在に至るまで主権はなく日本政府に
声が届かないどころか米軍基地問題は、
アメリカの裁定になっている様な気がする。

 しおちゃんは、声を大にして言いたい
真の独立国家であるためには国防は
外国に頼るのではなく自国防衛の
早期確立を希望する。

 武器のない国を目指すと声高々に
叫ぶ人たちを否定するものではないが
文明の発展とともに防衛のための武器も
発達していることを思えば警察の犯罪阻止の
ためにある程度の備えと一緒で国家も
現在の世界情勢を考えれば避ける事のできない
問題なのである。

 琉球時代の沖縄本島でも内戦によって
琉球王国が誕生した歴史事実がある。

 琉球政府時代に生まれ9歳になって
日本国籍を取得したがアメリカ施政権下を
経た人生とはいえしおちゃんは、身も心も
生まれた時から日本人なのである。

 1872年の琉球処分から1972年の
本土復帰までの百年の歴史で沖縄の代表を
決める選挙はたった一回しかなく
本土復帰に沖縄の夢を託した沖縄県民の
思いは普天間基地問題に象徴されるように
米軍基地の荷重負担に対して沖縄の民意が
届かないと言っている声も多いに理解できる。

 1995年から始まった普天間基地
移設問題は、現在に至るまで宜野湾市の
ど真ん中に29年経った現在でも変わらず
同じ場所に存在していて辺野古埋立が
進行しても県民闘争は続いている。

 いつのまにかアメリカ施政の27年を
超える月日が流れている。

 大東亜戦争の敗戦により
日本は、連合軍の支配下に置かれたが、
沖縄県・伊豆諸島・小笠原諸島・鹿児島県の
奄美諸島はアメリカ軍の占領下に置かれた。

各地の本土復帰
伊豆諸島1946年3月22日
トカラ列島1952年2月10日
1951年サンフランシスコ平和条約
奄美諸島1953年12月25日
小笠原諸島1968年6月26日
沖縄県1972年5月15日

北海道の北方領土は終戦から
79年経っても返還の兆しは
何も見えていない。
  


Posted by しおちゃん at 08:24Comments(0)沖縄未来妄想図

2024年05月12日

沖縄未来妄想図



自立を目指す沖縄

 第二次世界大戦で追い詰められた
日本は、1945年7月26日に発行された
ポツダム宣言(降伏要求の最終宣言)を
受け入れて8月14日に連合国側に
受け入れ通告をして翌8月15日に国民に
発表されたので8月15日が終戦記念日と
なっている。

 沖縄県全戦没者慰霊の日は、
1945年6月23日となっている。

 連合国側と降伏文書に調印したのは
ミズーリ号甲板で9月2日に執り行われたので
外交文書として宣言はされた。

沖縄での降伏調印式は、1945年9月7日に
南西諸島の全日本軍の代表と米軍代表が
日本軍の全面降伏を受け入れ調印された。

 戦争末期の1945年4月1日に沖縄本島に
上陸したアメリカ軍の総攻撃を受け
日本軍の第32軍司令部は首里城の地下壕から
本島南端の摩文仁まで追い詰められ
牛島司令官と長参謀の二人が自決した
6月23日が沖縄慰霊の日となっている。

 当時の沖縄県知事だった島田叡知事と
沖縄県警察部長の荒井退造部長二人の命日は
6月26日とされている。

 沖縄日本軍の最高責任者が自決した場所は、
摩文仁の丘の上にあり島田知事と荒井部長の
姿を最後に目撃したのが現在二人の慰霊碑が
建立されている側にある壕を出たきり
消息を絶ったと言われている。

 島田知事と荒井部長は6月7日前後に
牛島司令官のもとを訪ね牛島から
「貴方らは軍人ではないので死ぬことはない」
と言葉を残したと聞いた。

 6月9日に同行していた県職員・警察職員に
対し「生きろ』と島田知事が訓示をしたと
しおちゃんの知人が現場にいた県職員の
行きの頃である叔父から伝え聞いていた話を
耳にしたことがある。

 沖縄は、悲惨な地上戦を体験して
27年の米軍とアメリカ政府の統治下で
沖縄県民は、支配されていた苦難の歴史体験を
持っているが故に悩ましいのである。

 しおちゃんは、終戦から18年後に
この世に生を受けたので、戦争体験を
持っていないが、紙幣はドルを使用し
車も右側通行と本土とは違う生活体験を
している。

 小学3年生で本土復帰を迎えたので
当時の記憶は鮮明に覚えている。

 少なくとも当時の大人たちは
本土復帰を嘆く人は一人も存在しなかった
と思うが、アメリカーとかナイチャーとか
そんな表現はよく耳にしていた。

 その表現が、良いか悪いかは別にして
タイに住む娘は、インド人、フィリッピン人
韓国人、台湾人、アメリカ人と多くの
外国人の友達と付き合いがある。

 妻もしおちゃんも外国人の友人がおり
普通に仲良くしている。

 本土復帰して52年になるが
アメリカーとかナイチャーとか
死語になっている気がするが、一部の人には
外国人を毛嫌いするような表現をする人達が
存在することを耳にすることがある。

 台湾有事を想定した自衛隊配備が
騒がれているが、しおちゃんは防衛機能を
増強することは必要だと考えている。

 悪いのは戦争を推進する事であって
戦争を避けるための軍隊はどうしても
必要だと思う。

 反社会的勢力を弱体化させるためには
それを取り締まる警察の防衛力は必要
なのである。

 日安保条約も自衛隊の存在を否定する人は
沖縄で辺野古反対と声高々に叫ぶ人たちの
全てが日米安保条約も自衛隊を支持する人達が
少ないとも思っている。

 本土復帰してからの52年は、復帰前とは
比較にならないほど発展している。

 特に県都那覇市の発展は、東京・大阪・愛知の
大都会と比べられないが、全国地方都市の中では、
見劣りはしないと言っても過言ではない。

 復帰当時、大臣が先か?高校野球の全国制覇が
先か?と本土に追い行き追い越せを合言葉に
沖縄県民は、自己研鑽していた。

 那覇空港は、全国主要空港の一つで
航空時刻表の中では地方空港扱いは
されていない。

 日本全国民からすれば沖縄は、
間違いなく日本であり日本人なのである。

 沖縄高校野球のレベルは全国トップクラスで
ありプロ野球で活躍する多くの県出身の活躍は
野球ファンであれば誰もが知っている事実である
 
 高校野球も春夏連覇するなど、
平成の時代で四度の全国制覇を成し遂げている。

 沖縄県選出の大臣も誕生したが、
高校野球の全国レベルと比べると
政治交渉の形がまだまだの気がするのは
しおちゃんだけだろうか・・・

 沖縄の悩ましい歴史から
琉球独立を主張する人達が存在する事も
知っているが、しおちゃんの沖縄県民の
一人として持つ夢は、沖縄から総理大臣や
政権政党の幹事長が誕生することを
願っている。

 成長した子供が、親離れするように
自立した沖縄行政の姿を感じた日本政府が
仕送りをしていた親が、子離れするがの如く
沖縄の補助金はもういいですねと言われるように
成長して欲しい。

 但し日米安保条約による荷重な米軍基地負担に
対する補償は別問題なので、補助金と補償を
一緒に失くすというのであれば、どうぞ
米軍基地を本土に移転してくださいと
言える政治交渉ができる政治家の誕生を
願うばかりである。

 高校野球と比べるなと言われるかも
しれないが世界を相手に日本代表の
政治家が誕生することは決して夢物語では
ないと思うのだが。  


Posted by しおちゃん at 12:46Comments(0)沖縄未来妄想図

2024年05月11日

本土復帰52年


辺野古の海

沖縄本土復帰52周年

 5月15日は、琉球政府から日本政府
に復帰して沖縄県に復帰した記念日である。

 独立国だった琉球王府だった時代から
1872年6月7日琉球国から琉球藩に代わり
1879年3月27日に明治政府から沖縄県の
名称が言い渡された。

 時代を遡れば、三山時代の
戦国の世を経て1429年から
1879年の450年間を琉球王国時代と
なっているが、1609年3月7日〜
4月5日(29日間)薩摩による琉球侵攻
から江戸幕府の薩摩藩による植民地として
270年の時代だった。

 明治新政府が誕生したのが1868年4月6日、
廃藩置県が施行されたのが1871年7月14日なので
琉球国は、江戸幕府の薩摩支配から明治新政府に
引き継がれた日本による植民地だったことになる。

 1895年4月17日の日清講和条約により朝鮮独立と
台湾の割譲を認めさせ台湾が正式に日本となり
先の敗戦まで沖縄と台湾は日本国だった。

 戦後沖縄県は、27年間もアメリカの施政権に
置かれ台湾と中国は領土問題を争っている。

 尖閣諸島を含んだ問題が
悩ましい台湾有事と呼ばれる
不安を生んでいる。

 沖縄の主権は1609年の薩摩侵攻から
1972年本土復帰まで実在していなかった。

 終戦までの沖縄県知事は日本政府の
指名による官選知事で本土復帰前の
1968年12月1日の戦後初の行政主席選挙に
より屋良朝苗行政主席が誕生し1972年の
本土復帰により屋良朝苗沖縄県知事が誕生した。

 屋良朝苗知事の誕生は、沖縄の歴史上で
民主主義の選挙で選ばれた最高責任者なのである。

 当時の屋良朝苗知事は、沖縄の本土復帰は
戦争の負の遺産である米軍基地が全面撤去されると
信じていたし大多数の沖縄県民がそう信じていたと
思う。

 沖縄の歴史は、1609年の江戸幕府の薩摩藩による
侵略から現在に至るまで主権はなく日本政府に
声が届かないどころか米軍基地問題は、
アメリカの裁定になっている。

 しおちゃんは、声を大にして言いたい
真の徳利国家であるためには国防は
外国に頼るのではなく早く自国防衛の
早期確立を希望する。

 武器のない国を目指すと声高々に
叫ぶ人たちを否定するものではないが
文明の発展とともに防衛のための武器も
発達していることを思えば警察の犯罪阻止の
ためのある程度の武器は必要だし国家も
避ける事のできない問題なのである。

 琉球時代の沖縄本島でも内戦によって
琉球王国が誕生した歴史事実がある。

 琉球政府時代に生まれ9歳になって
日本国籍を取得したがアメリカ施政権下を
経た人生とはいえしおちゃんは、身も心も
生まれた時から日本人なのである。

 1872年の琉球処分から1972年の
本土復帰までの百年の歴史で沖縄の代表を
決める選挙はたった一回しかなく
本土復帰に沖縄の夢を託した沖縄県民の
思いは普天間基地問題に始まる
米軍基地の荷重負担に対して沖縄の民意が
届かないと言っている声も多いに理解できる。

 1995年から始まった普天間基地
移設問題は、現在に至るまで宜野湾市の
ど真ん中に29年経った現在でも変わらず
同じ場所に存在して辺野古移転計画が
進行しても県民闘争は続いている。

 大東亜戦争の敗戦により
日本は、連合軍の支配下に置かれたが、
沖縄県・伊豆諸島・小笠原諸島・鹿児島県の
奄美諸島はアメリカ軍に占領下に置かれた。

各地の本土復帰
伊豆諸島1946年3月22日
トカラ列島1952年2月10日
1951年サンフランシスコ平和条約
奄美諸島1953年12月25日
小笠原諸島1968年6月26日
沖縄県1972年5月15日

北海道の発哺領土は終戦から
79年経っても返還の兆しは
何も見えていない。
  


Posted by しおちゃん at 14:35Comments(0)沖縄未来妄想図

2024年05月08日

銀婚式



ゴーヤの日は結婚記念日
 
 那覇市の中心に戦後あった米国市民会員制社交クラブ跡地に 
沖縄国際海洋博覧会開会日の前月1975年6月に 
誕生したホテルで20世紀末の5月に多くの参列者に 
囲まれ華燭の典を挙げてから25年の月日が流れた。 
 
 2000年3月には娘、2003年7月には息子と 
二人の子宝に恵まれた。 
 
 昨年娘は、東南アジアで就職し息子は 
関西の大学に入学したので、妻と二人きりになり 
二回目の新婚生活をエンジョイしている。 
 
 娘は完全に自立しており息子は親元を離れ 
見知らぬ土地で自活している。 
 
沖縄から遠く離れたタイアユタヤにある 
娘の部屋とバンコク市内のホテルで母娘水入らずの 
光景を妻のLineメールから娘の成長した姿を感じた。 
 
 三月には、夫婦で息子の住む兵庫県垂水区にある 
ワンルームマンションと淡路島にある温泉宿で 
妻と息子としおちゃんと川の字になり枕を並べ 
一夜を過ごした。 
 
 介護など悩ましい問題もいくつか抱えてはいるが 
子育てに関しては、大きな悩みもなく 
銀婚式を迎えられて人並みに幸福感を味わえている 
 
 結婚当初、しおちゃんには金婚式とは無縁だと 
口にしていたが、今現在は夫婦元気で結婚50周年を 
迎えられると願望ではあるが信じている。 
 
 妻には、とにかく感謝しかない 
しおちゃんにとって今一番の財産は?と聞かれたら 
「共感できる妻の存在」と声を大にすることが出来る。 
 
 しおちゃんの結婚式は、ホテル内にある挙式場に 
波の上宮の神職立会いの下夫婦の契りを交わした。 
 
 しおちゃんは、幼稚園、小学校二年生まで 
妻は、大学と二人ともミッションスクールに 
通学した体験を持つ。 
 
当時のしおちゃんは、神前でも教会でもどちらの形式も 
こだわりはなかったが、義母の一言により神前で 
挙式を執り行う事になった。 
 
結婚してから妻の本音を尋ねたことがあるが、 
奥ゆかしい彼女にとっては、過去の話で
意に介せない態度を取った。

 人生の大半を妻と一緒だが、
夫婦目線の子供達人生劇場鑑賞は
終わりが無いので楽しい。

 人間にとって一番大切な事は、
親より長生きする事だと感じている。

 妻と夫婦になって25年
第一子が誕生して24年、
息子の誕生日は4人家族が確立した
歴史の誕生日でもある。

 家族25周年(銀婚式)は、順調にいけば
息子も就職をして完全に自立しているだろう。

 家族25周年の翌年夫婦生活30年を
迎える。

Ihave a dream
しおちゃんには夢がある


https://youtu.be/AMKlh1lVPGY?si=7c33UHVikEEYCTnM  


Posted by しおちゃん at 05:44Comments(0)ファミリー

2024年05月07日

農作業に癒される


畑近くの海岸でランチ
農作業体験

 しおちゃんには、農業の師匠がいる。
GW前に師匠からの電話で時間が取れれば
手伝ってくれないか?
連絡があった。

 当初は、国頭東海岸を歩く予定だったが、
調整して3日の午前中と4日と久しぶりに
農作業で汗を流した。

 50代の目標だったたくさんの
人生初体験挑戦の一つに農業があった。

 坐禅を始め40代前半からしおちゃんの
ライフワークの一つだった歩きを
住職から貴方はすでに禅をしていますと
教えられた。

 それから知人に勧められた
ドイツ人哲学者が日本滞在中に体験を綴った
「弓と禅」を読み元々興味のあった弓道を始めた、
 
 弓道、座禅、書道にハマっていた
しおちゃんは武士道に興味を持ち
書籍を読みあさっていた。

 結婚当初から妻に囁かれていた
「将来は、畑仕事をしたいね」
そんなある日、外食をしている際に
妻の一言をきっかけに週末農業を始めた。

 歳を積み重ねたからなのか
農業に対する興味が一気に湧く感情に
自分でも驚くほどだった。

 大地を相手にする農業は
人間の生きる原風景を感じると共に
農作業中に没頭していると無の状態になり
禅同様心のストレッチ効果があった。

 先日、宮古島に帰省した時
後輩から八重瀬町に畑があるので
借りてくれないかと言われたので
無下にはできないので現地確認をしたが、
環境的に難しいと判断して断念した。

 丁度そのタイミングでの
師匠からの誘いだった。

 久しぶりに農作業で汗を流したが
爽快感を感じていた。

 一日半の農作業で
ゴーヤの受粉、ゴーヤ、オクラ、ヘチマ、
ミニトマト、ニラ、ピーマンの収穫。

 サトウキビの植え付けに
ビニールハウスの手入れ。

 朝一番で誰もいないスーパの
野菜売り場にシールを貼り出荷もした。

 農作業に行くことが決まった
4日前に昔アップしたブログを検索して
読み返すと毎週末農作業にハマっていた
しおちゃんに妻から
「師匠とばっかりデート(農作業)しないで
たまには私ともデートしてよね」
と言われたことを書いていた。

 当時は、四人家族の生活だったが
現在は、妻との二人暮らしなので
あの頃の様には週末農業はできないが
畑仕事を続けるにはどうしたら良いのか
考えていると師匠から面白い言葉が
飛び出した。

【しおちゃんブログ過去】
2019年2月6日
「アグリセラピー}
https://shiokawa.ti-da.net/e10942628.html

2018年10月14日
「農業は心のストレッチ)
https://shiokawa.ti-da.net/e10764824.html  


Posted by しおちゃん at 05:59Comments(0)農業体験

2024年05月06日

友 遠方より来る


沖縄最東端の碑(北大東島)

 沖縄で生まれ育ったしおちゃんは、
成人するまで那覇で5年石垣島で4年
宮古島で9年過ごし東京で20歳の誕生日を
迎えた。

 妻は、糸満で生まれ結婚するまで
実家で生活していたので、沖縄以外の土地で
生活をしたことがない。

 妻の人生は、実家を出て人生の丁度半分を
しおちゃんと過ごした事になる。

 昨年、娘がタイで息子が
兵庫県で一人暮らしを始めた。

 10年ぐらい前から子育てが終わったら
農業をしながら沖縄の田舎で暮らすか?
沖縄県外か海外に移住することを
夫婦で語り合っていた。

 日本全国を旅した体験と鹿児島から
北海道まで歩いて旅をした事で
見知らぬ土地で様々な地元の人と
出会い交流を持った事で、
沖縄の那覇でも石垣島でも宮古島でもない
改めて自分は日本人として生まれた事を
感じていた。

 沖縄の悩ましい歴史、人一人の人生にも
光と影がある様に日本各地にも同じ様に
歴史遺産の光と影を学んだ。

 沖縄最東端にある大東諸島は、
1900年に開拓民が移り住んでからの
文化も芸能も沖縄とは異なり先人達から
引き継がれている琉球祈りの文化さえも
島特有なのである。

 先の敗戦からアメリカ施政権に置かれて
初めて行政が誕生してそれまでは民間会社が
支配するプランテーション農業の形をした
離島で紙幣まで会社が独自の紙幣を発行していた。

 沖縄の戦後は、大東島の行政区としての
歴史と一緒なのである。

 日本縦断徒歩の旅を完結して
大東島の歴史に興味が湧き最東端の
北大東島でプチ移住を計画した。

 約2ヶ月の生活から学んだことは、
沖縄農業の基幹産業であるサトウキビの
存在だった。

 北大東小学校の校庭には
「島に誇りをここに夢を」
と刻まれた石碑がある。

 隣の南大東島製糖工場の建物には
「サトウキビは、島を守り
島は、国境を守る」
と大きな文字が刻まれている。

 北大東島に滞在中インドネシア人労働者と
知り合い仲良くなった。

 彼等は、日本から遠く離れた地から
沖縄最東端の絶海の孤島に派遣されてきた。

 文明が発展した現代と言えども
北大東島は、飛行機で一時間、船だと
15時間もかかる国境の島である。

 島は、国境を守る為に
基幹産業である製糖作業を外国人労働者に
頼らざる得ない現状を目の当たりにした時
複雑な思いが胸を過ぎった。

 労働者として働く環境は、
悪くは無いと思うが、外食やショッピング
環境などが限られた離島の生活は
大変な物だと感じているが、彼等の
言動からは、一切そんなストレスを感じる事は
全く無い。

 全員が、イスラム教徒で時間が来たら
礼拝をする姿を見ているとしおちゃんが
忘れかけていた心を教えて貰った。

 休暇を利用して遊びに来た彼等の
貴重な時間を焼肉食べ放題で共有した。

 しおちゃんが住んで居た当時は、
10名だったインドネシア人も現在は、
倍以上の人数になって居ると聞いた。

 過疎化問題は、北大東島だけでは無く
沖縄の離島が抱える最重要課題だと思うが、
その対策がどうなっているのか
とても気になる。

 久しぶりの再会は
外国人である彼等から日本人の一人として
色々考えさせられ。

 心が綺麗な彼等と一緒にいると
言葉の壁は、何ら問題がなかった。

 7月にまた遊びに来るというが
首を長くして待っているしおちゃん。
幸せな気持ちにさせてくれて
ありがとうMy friend。

  


Posted by しおちゃん at 14:08Comments(0)北大東島

2024年04月29日

還暦でも夢を持つ

目を星に向け、
足を地につけよ
Keep your eyes on the stars,
and your feet on the ground.

1963年卯年生まれのしおちゃんは、
還暦を迎えて初めて迎える3月は、
令和5年度(2023年度)の年度末であるので
定年退職を迎えた同級生が多くいる。

 昨年小学校2年まで通学した石垣島の
還暦同窓会に参加して51年ぶりに
机を並べた同級生達と再会した。

 汚れの知らない純粋無垢な少年少女達は
立派な大人に成長していた。

 小学校3年生の3学期から高校卒業まで
過ごした宮古島の還暦同窓会には旧暦の行事と
重なり出席することが出来なかったので
最近は、なるべく普段会うことが出来ない
同級生と語る機会を積極的に作るように
している。

 先週は、法事で帰省したので
2022年に日本縦断徒歩の旅で
LINEグループでしおちゃんを励ましてくれた
女性同級生達と会合を持ちしおちゃんの
大きな夢を応援してくれた御礼をした。

 先日は、親友の朗くんが
還暦同窓会に出席した際に久しぶりに
再会をした克ちゃんが今度3人で飲もうなと
約束したと言うので飲み会をセットした。

 丁度隣の席で西城学区の同級生達が
模合をしていたので合流してにわか
プチ同窓会になり楽しんだ。

 その中にいた弁護士として活躍している
宮古高校同級生の修くんと南秀同窓会の
在り方の話題を語り合っていると
しおちゃんの隣に席を移動して
「ちょっと真面目な話をして良いか?」
と断っておもむろにふるさと宮古島の
将来から沖縄県の現状と未来について
語ってきた。

 内容は割愛するが要するに
これからは、未来の子や孫達の世代に
お互いは、同級生の立場として真剣に
話し合う必要があると熱く語ってくれたが、
全てに共感することばかりだった。

 これまで数々の弁護経験のある
友人に裁判の疑問を質問した。

 しおちゃんも実際にこれまで何度か
裁判を傍聴した体験や報道などで感じた
世の中の不条理を質問した。

 実際の裁判やドラマの中での裁判で
明らかに良い悪いがはっきりしているのに
仕事とは言え弁護士の立ち居振る舞いを
いつも尊敬の念を感じていると口にした。

 友人が言うには、裁判の勝ち負けではなく
司法の場で自分たちの主義主張をする事で
満足する人たちが存在するのも事実だと
答えてくれた。

 昨日、衆議院補選があり三選挙区全てで
自民党が全敗した。
 東京・長崎の選挙区は、出馬を見送ったが
保守王国と言われる島根県で小選挙区になって
初めて議席を失った。

 昨今の政治家による裏金問題や言動問題は、
誰の目から見ても酷いと言わざるを得ない。

 静岡県知事の辞任問題やSNSなどで
発信される国会議員から地方議員に至る
立ち居振る舞いや言動もいかがなものかと
感じる事が多々ある。

 還暦を迎えた同級生達も
皆それぞれの人生を歩んできているが、
しおちゃんの周りにはまだまだ夢を語る
同級生がそれなりに存在する。

 先日も違う同級生の集まりで
誰々がどうのこうのと議論している
二人にここに居ない人の話をするなと
注意をしたが、自分に言い聞かせてもいた。

 還暦を迎えたしおちゃんは、
世間から見たら間違いなく老人になる
いくら自分で若い若いと思っていても
撮影した写真は嘘をつかないし
現実を突きつけてくる(笑)

 トイレに飾られていたカレンダーに
米国史上最年少の42歳で大統領就任した
セオドア・ルーズベルト(1958〜1919)の
冒頭の格言に出会った。

 ネットを検索するとルーズベルト氏は
「武士道」に関心があり、日本人の持つ勇気、
忍耐、慎み、礼儀、名誉、忠誠などに共感した
と言われている事を知った。

 彼は、60歳で闘病の末、死去している
しおちゃんは、ありがたい事に
60歳になった現在も健康体である。

 60歳になってもまだまだ未熟者の
しおちゃんだけどルーズベルト氏の
格言を心に受け止めこれからの人生を
自分に優しく歩んでいきたい。

 還暦を迎えた今だからこそ一旦冷静になって、
今何をなすべきか考え、感情ではなく、理屈に
従って行動することが大事なのかもしれない。

「目を星に向け、足を地につけよ」






  


Posted by しおちゃん at 15:47Comments(0)塩ちゃん人生論

2024年04月27日

小笠原諸島


ジョン万ゆかりの島

 47都道府県に行ったことのある体験を持つ
しおちゃんは、その事が自慢であったが、
鹿児島から北海道まで歩いて旅している
最中、行った事のある体験が独りよがりの
自己満足に過ぎないことを悟った。

 確かに全国主要の観光地を散策したり
主要施設を拝観したりしたが、徒歩の旅の
道中で感じる目に見える風景と目に見えない
風景に出会う度にその想いを強くしていた。

 昨年からアユタヤに住んでいる娘は
一年足らずの間にタイ国内・ラオス・マレーシア・
スリランカ・韓国に旅行している。

 誰に似たのか24歳の娘の行動力には
親というより人として脱帽する想いを
超越した尊敬の念を強くしている。

 娘が高校生の頃から言葉にしていたのが
将来アフリカ大陸に移住することが夢で
まだ持ち続けているみたいである。

 しちゃんは、なぜか二十代の頃から
小笠原諸島にすごく興味を持っていた。

 日本国内で、何処を旅したいかと
聞かれたら小笠原諸島、隠岐、五島列島
(特に奈留島)と答える。

 日本人なら誰でも知っている
黒船来航とペリー艦長の名前。

 ペリーは、江戸湾の浦賀に行く前
琉球に立ち寄り琉球王府と交渉しながら
沖縄本島を調査し一部の船員を引き連れ
小笠原諸島に行き探検をした。

 途中、大東諸島を確認したと言う
記録があるがもし大東島が、断崖絶壁の島で
なければ立ち寄ったかもしれないと
しおちゃんは、想像する。

 小笠原諸島は、先の大戦では沖縄地上戦前に
硫黄島の戦いがあった事で知られている。

 小笠原諸島も沖縄県同様、
戦後アメリカ施政下の置かれた体験を持ち
沖縄が本土復帰する4年前の1968年に
本土復帰を果たした。

 日本列島から遠く離れた
小笠原は東京都の国境離島として
日本にとって大事な存在でもある。

 しおちゃんが、なぜ小笠原に興味を
持ったのは二十代後半に一緒に仕事をした
同僚から仕事で生活した体験を聞かされた
からなのかそれともそれ以前に知識として
あったアメリカ占領の歴史を重ね合わせて
いたのかもしれない。

 小笠原諸島は、しおちゃんの尊敬する偉人
ジョン万次郎ととっても縁のある島なのである。

 次回 ジョン万次郎と小笠原に続く

  


Posted by しおちゃん at 14:22Comments(0)ジョン万次郎

2024年04月26日

宮古島帰省


伊良部大橋にて

宮古島帰省

 昨年4月に亡くなった親父の実姉の
一年弔法要に出席するため3年ぶりに
宮古島に2泊3日の日程で帰省した。

 初日は、空港から3月15日に突然死した
一つ年上で2019年に全校生徒前で講演をした
当時の教頭先生の仏壇に手を合わせた。

 訃報に触れた時も衝撃だったが
実際に遺影の写真を目にした時あふれる
涙を抑えることが出来なかった。

 そこから昨年、火災事故で亡くなった
高校野球部の一つ年上の実家を訪ね
仏壇に手を合わせた後、先輩の実家の
隣町にある両親の祖父母が眠るお墓と
親戚二ヶ所のお墓参りをした。

 昼食を済ませ今度は、友人のお袋と
友人の親父の仏壇に手を合わせた。

 その夜は、中学校の恩師を囲んで
しおちゃんが2022年に日本縦断徒歩の
旅をLINEサポートしてくれた同級生5人で
食事会の予定だったが先生の近い友人が
この日、急逝したので先生は欠席したが、
メンバーの一人が翌日61歳の誕生日を
サプライズで開催した。

 翌朝は、宮古島のメモリアルパークを
訪ね親戚と友人二人の父親が眠る二つのお墓に
手を合わせた。

 夕方は、一年法要に出席した後は
昨年11月に他界した一つ後輩の実家を訪ね
仏壇に手を合わせた。

 今回の宮古島帰省は、七ヶ所の仏壇と
六ヶ所のお墓参りをして感じたことは
人間は歳を積み重ねている生き物だと
実感した。

 健康一番改めてその大事さを感じた
ふるさとであった。



  


Posted by しおちゃん at 18:55Comments(0)ふるさとの風景

2024年04月24日

琉球歴史探訪



沖縄と日本の歴史を重ねる事で
気付く事がたくさんある。

 自分が生まれ育ったこの島の事を
日本の事を地球人として思う事が
多々ある。

琉球国〜琉球藩〜沖縄県

1429年 三山時代を経て琉球国第一尚氏時代
1469年 第二尚氏時代
1609年 薩摩による琉球侵略
1847年 ジョン万次郎米捕鯨船員として小笠原来航
1851年1月2日 ジョン万次郎琉球上陸
1853年 5月26日 ペリー琉球来航
1853年6月9日 ペリー小笠原探検
1853年7月8日、黒船来航浦賀
1854年7月11日 琉米修好通商条約
1855年11月24日 琉仏修好通商条約
1858年6月19日 日米修好通商条約(無勅許)
   7月10日 日蘭修好通商条約
   7月11日 日露修好通商条約
   7月18日 日英修好通商条約
   9月3日 日仏修好通商条約
1859年7月6日 琉蘭修好通商
1859年11月 咸臨丸太平洋横断(ジョン万次郎乗船)
1862年9月14日 生麦事件
1863年9月 八丈島から小笠原に38名入植
1864年6月 生麦事件によって日英関係が
   悪化したことを受け、日本人移民が父島から撤収
1868年 明治維新
1868年5月13日 江戸城無血開城
1868年9月11日 咸臨丸駿府湾に沈没
1869年6月 函館戦争終結
1871年 宮古島島民遭難事件
1871年 廃藩置県(日本)
1872年 琉球藩設立
1874年 佐賀の乱
1874年 台湾出兵
1876年 小笠原日本領有が確定
1877年 西南戦争
1879年 琉球国王首里城明け渡し
1884年 古賀辰四郎尖閣諸島探検
1885年 大東島日本領土宣言
1880年 東京府の管轄となる
1891年 古賀辰四郎大東島上陸断念
1894年 日清戦争勃発
1895年 尖閣諸島日本領土(沖縄県に編入宣言)
1896年 古賀辰四郎尖閣諸島魚釣島開拓開始
1900年 玉置半右衛門(八丈島出身)南大東島開拓開始
1903年 宮古島人頭税廃止
1904年 日露戦争勃発
1905年5月 久松五勇士
1945年8月15日 太平洋戦争(大東亜戦争)終戦
  


Posted by しおちゃん at 06:33Comments(0)琉球歴史探訪

2024年04月04日

緊急津波警報


危機意識

 那覇市高台にあるおもろまちにある
事務所で会議開始時間の9時前各自が
メンバー7人全員の携帯電話の警報音が
けたたましく響いた。

 台湾花蓮市沖を震源とする地震発生による
津波警報を知らせる警報だった。

 おもろまち自体が高台にあるため
特に避難場所に移動する必要が無いため
一時間の会議はそのまま進行された。

 会議進行中もマナーモードにした携帯は
頻繁に着信を知らせていたが、会議に没頭
していたがどこか落ち着かないもあった。

 会議終了後、携帯を確認すると
北海道・東北・関東・関西に住む友人から
LINEや留守電を確認すると皆同様に
しおちゃんの安否確認だった。

 現地にいるしおちゃんは、ある意味
のほほんと会議をしていたのにマスコミ報道で
情報を得た友人知人は、自分ごとの様に
心配していたかと思うと何か申し訳ない
気持ちになってしまった。

 妻からは、何度もLINEや電話もあった
普段はLINEがあっても緊急で無い限り
滅多に電話をすることの無い妻の反応は
さすがだと思った。

 帰宅後食卓で、津波警報の話題になり
耳を傾けると妻の職場は、安否確認の為
社員は一時仕事を中断して家族や親族に
連絡を取っていたが一部の人は自分の
仕事を優先していたが、管理職も経営陣も
それぞれぞれの反応だったと嘆いてもいた。

 タイに住む娘は、妻だけではなく
ばあちゃんにも電話をしたが、繋がらないと
心配する連絡があったと聞いて危機意識の
高さに感心すると同時に自分の意識の弱さに
恥ずかしさも感じた。

 その日の夕食のテーブルで妻は、
職場の関連会社でも対応がまちまちで
しっかり避難対策をしている会社や現場もあれば
対岸の火事のような雰囲気がある職場も
あったと自分ごとのように心配していた。

 那覇軍港近くの職場で働く友人の会社は、
対応が素早く津波警報が発令されてから
高台避難を決断し友人は、自宅療養をしている
奥さんを連れて近所の高台に移動したが
避難民でごった返していたと聞かされた。

 友人に言わせれば、津波は
発生しなかったが、結果的にいい避難訓練に
なったと安堵感を感じさせる口調が携帯越しに
伝わってきた。

 しおちゃんの家族は、妻が司令塔となり
親族全員の安否情報を的確にSNSを通じて
確認できた。

 災害は忘れた頃にやってくる。
緊急警報を受けて瞬時にどれくらい
対応できるか残念なことにしおちゃんが
速報を受けた環境は、上手ではなかったと
反省している。

 避難場所近くにあったとは言え
確かに自分の安全は確保できていたが、
妻の様に娘の様に対応できたかと
聞かれたら上手に対応できなかったと
反省するしかない。

 大事な仕事の会議かもしれないが
命を脅かす警告に対する反応としては
良くなかったと思っている。

 妻の行動による連絡のおかげで
大切な家族の安否確認ができた事で
どれだけ安心できたかとても良い
勉強になった。

 誰とは言わないが、自分は大丈夫だから
笑いながら避難する必要のある場所に
いるのにも関わらず行動を起こさないので
車で迎えに行き避難場所に連れて行ったと言う。

もし一刻を争う必要があったと思うと
もし大津波が押し寄せてきて車で移動する
時間が命取りになるかもしれない。

 先ずは自分の安全を確保することで
大切な人を気遣うことができる事を
教えられた今回の警報だったと思う。

忘れてはならない大切な事は
震源地に近い台湾花蓮県の犠牲者に
心からのご冥福を祈る。合掌🙏


  


Posted by しおちゃん at 06:55Comments(0)平和シリーズ

2024年03月31日

盲導犬と歩く


点字ブロック

 週末の土曜日、久しぶりに
国際通りを牧志からパレット前交差点に
向けて歩いた。

 コロナ禍に閑散としていた国際通りを
思い起こしながら平和の有り難みを
感じていた。

 一銀通り入口前交差点で信号待ちを
していると「すいません🙏すいません🙇‍♀️
ごめんなさい🙇‍♀️」と左後ろから
若い男性の声が聞こえたので振り帰ると
盲導犬と一緒に歩く男性が、点字ブロックの
停止位置に立っていた男性に頭を下げていた。

 盲目の男性は、気が動転していたのか
歩行者信号が赤にもかかわらず
横断歩道を渡ろうとしたので男性の腕を
捕まえて「赤ですよ」と声をかけると
男性は、丁寧に御礼の言葉をかけてきた。

 しおちゃんが、「何処に行きたいのですか?』
と問いかけると「パレット」と言うので
それなら私が案内しますと言うと
男性は、「ありごとうございます
お願いします」と丁寧な言葉遣いをした。

 男性の腕を捕まえて足を進めると
しおちゃんの腕を優しく振り払い
逆に左腕をしっかり握り返した。

 盲目の男性は、名護市在住で
所用があり久しぶりの国際通りだと
言っていた。

 しおちゃんは、これまで盲目の人との
接点といえば、整体師との接触ぐらいだと
男性に話をしながら色んな話をした。

 パレットに着くと9階に喫煙場があるので
そこまで案内して欲しいとお願いされたので
エレベータで上がると喫煙所が探せないので
飲食店で訪ねるると9階からさらに
階段を上がり屋上にあると聞いた。

 男性は、タバコを吸わなければいいのにと
恐縮しながらしおちゃんの行動に
感謝の気持ちを伝えてくれた。

 しおちゃんに自動販売機で飲み物を
買って欲しいとお願いされたので
しおちゃんは、缶コーヒーをプレゼントした。

 色んな話をしながら男性に仕事関係を
質問するとIT関係のプログラマーだと
聞かされビックリした。

 公共機関の話題になると沖縄の鉄道計画とか
知識が豊富で神戸のポートライナーの話題になり
神戸市垂水区に息子が住んでいると口にすると
男性は隣町の北区に5年ぐらい住んでいたと
口にした。

 しおちゃんが、写真をお願いして
SNSにアップして良いか確認すると
全然構わないですと言われたので
記念撮影をした。

 男性と一緒にいる間、7歳になる
盲導犬は、その存在を感じさせないぐらい
しっかり馴染んでいた。

 わずか一時間にも満たない男性との
時間は、世界恒久平和と健康の有り難さを
肌身に染みた時間だった。
  


Posted by しおちゃん at 19:23Comments(0)国際通り

2024年03月26日

故島田叡知事


島守の広場

 神戸市須磨区にある
須磨寺に妻と息子の三人で参拝した。

 参拝の一番の目的は、境内では無く
須磨寺表参道に2022年に完成した
島守の広場を訪ねる事だった。

 兵庫県と沖縄県は、1972年5月15日に
沖縄県が先の敗戦から27年間のアメリカ占領下
から解放され日本本土復帰した記念すべき
日だった。

 本土復帰50周年の記念すべき事業として
沖縄地上戦のあった1945年に最後の官選知事
として赴任して犠牲になった第27代島田叡知事の
出生地の近所にあったのが、須磨寺である。

 徒歩で日本縦断の夢実現を果たしたのが
偶然にも本土復帰50周年の2022年だった。

 徒歩の旅に出発前、
下野新聞記者と「島守の塔」の映画スタッフに
出会い沖縄地上戦で犠牲になった
警察部長の出身地が、宇都宮だと知った
しおちゃんは、道中寄り道をして
故荒井退造氏の墓前に手を合わせた。

 徒歩の旅を終え須磨寺参道の
島守の広場の存在を知ったしおちゃんは
いつの日か必ず訪れたい広場になっていた。

 昨年、県立兵庫大学を目指していた
長男が二度目の挑戦で夢を叶え
生活の場として選んだのが、須磨区の隣町
になる垂水区だった。

 コロナ禍のまだ落ち着かない
昨年の入学式には、残念ながら
息子の晴れ姿を目にする事が
出来なかったが、それはそれで
神様から与えられた試練として
妻と共に受け止めていた。

 昨秋、息子の住む部屋を訪問した際
管理人から鍵を受け取り部屋に入った
妻は、あまりの惨状に息子に
電話をして「足の踏み場も無いけど」
と戒めると息子は、今何処に立っているの
と返事をしたので、隙間にに立っていると
返すと足の踏み場もあるさと言われたと
苦笑いしていた。

 2月のある日夫婦と息子のzoom会話で
成長を感じたしおちゃんの提案で
息子に会いに那覇空港から夜のフライトで
神戸に行きその夜は、三宮のホテルで
一夜を過ごし翌3月15日にレンタカーで
息子と待ち合わせをして須磨寺を訪ねた。

 息子から須磨寺参拝の意義を問われ
島田叡氏の軌跡から兵庫県と沖縄県の
絆の歴史を伝えた。

 神戸に旅立つ前に故島田叡氏の
賛美に危機感を感じるグループの
存在を知り寂しさを感じた気持ちを
息子に伝えると人の考えには、
色々あるからねと返されたので
何事にも光と影が付きまとうと言うと
賛同してくれた。

 神戸から帰沖して最初の土曜日の朝
4:00に起きて友人と一緒に摩文仁にある
沖縄平和祈念公園内にある島守の塔を
参拝した。

 友人とは2022年に徒歩の旅出発前にも
この地を訪れていたので、色んな意味でも
生き証人的存在になっている。

 島守の塔の歴史を紹介する内容を
SNSにアップするとFacebook Friend
でもあり親しい先輩の奥さんから
「私の叔父は、元県庁職員で摩文仁の壕で
島田叡知事から最後の訓示を受けた」
とのメッセージが個人LINEにあった。

 塩ちゃんは、早速Facebookフレンドに
電話を入れ、話を聞いた。
 叔父さんは、亡くなっているので
息子さんと食事の場を設定してくれると
約束してくれた。

 しおちゃんは、帰宅して筆を持ち
写経で世界の恒久平和を祈願した。

 先の大戦で犠牲になった全ての先人が
安らかに眠れる様に哀悼の誠を捧げた。


 
 




  


Posted by しおちゃん at 12:31Comments(0)ファミリー平和シリーズ

2024年03月19日

家族旅行



2024年3月15日
一粒万倍日・天赦日・寅の日

 淡路島にある慶野松原荘に息子と妻の
3人で宿泊した翌日4時に目覚めた。

 親子は川の字で寝ていて、左隣の息子を
挟んで端で寝ていた妻もスヤスヤと寝息を
立てていた。

 大浴場はまだ入れないので、室内風呂に
お湯を溜めてiPadを見ながらまったりした。

 風呂を上がると妻は横になっていたが
しおちゃんの気配に起こされたのか
「おはよう」と挨拶されたが、息子はまだ
寝息を立てていた。

 時計を見ると大浴場がオープンする
6時前だったので妻は準備をしているので
しおちゃんは、隣接する慶野松原海岸を
散策した。

 海岸の説明版を読むと日本百景の一つで
万葉集で柿本人麻呂の歌にも詠まれた
景勝地として先人達の時代から親しまれて
いた事を知った。

 前日の夕食前に大浴場の露天風呂から
真っ赤な太陽が目に入ったので、
水平線に沈む夕陽を眺めたくて
急いで海岸線に出ると日の入り時間前だったが
雲の中に隠れてしまっていた。

 多くの宿泊客が宿に向かっていたが
砂浜まで足を運んだウェディングドレスを着た
新婚さんが記念撮影をしていた。

 慶野松原海岸は通称「プロポーズ海岸」
としても親しまれていると聞いていたので
サンセットの風景に感動しながら海岸の
呼称に納得していた事を思い出していた。

 散策から部屋に戻ると身体が冷えていたので
大浴場でまた入浴した。

 朝食時間と重なっていたのか、風呂から
上がる人が多く浴場内は、しおちゃんと
二回りくらい年下の男性と二人になった。

 浴槽で浸かっていると隣の男性の
耳上に白い物が付いていたので
気になって目を凝らして見ると
どうも石鹸の様だったので声をかけると
礼を言われて石鹸を落として戻ってきた
男性と話が盛り上がった。

 男性の話によると前日の3月15日は、
一粒万倍日・天赦日・寅の日が重なって
最強の開運日だった事を知った。
 
 大阪に住む男性は、前日の3月15日に
入籍して夫婦になって初めて迎えた
朝だと幸せそうな表情の言葉を聞かせてくれた。

 しおちゃんも前日を振り返り
昨年妻が、合格祈願をした生田神社に
合格報告のお礼を夫婦で参拝し、
人生感に大きな影響を与えてくれた
阪神大震災でボランティア活動をした
吾妻小学校跡地を夫婦で訪ねた時間。

 息子と合流して親子3人で沖縄地上戦当時
官選知事だった島田叡さんの生家近くにある
須磨寺を参拝してその参道にある
元知事の鎮魂と沖縄と友好県である兵庫県に
2022年に建設されたばかりの「島守の広場」で
息子と妻に故島田叡氏をしおちゃんの知識で
紹介した。

 しおちゃんの想像を超えた広い敷地の
須磨寺境内の奥の院の頂上にある百度拝と
書かれた石を88回廻ると四国八十八か所
巡礼を遍路したのと同じ高徳を受けることを
知り息子の前で88回歩いた。

 レンタカーで息子の学生寮マンションを
初訪問し管理不動産会社に挨拶をして
レンタカーで明石大橋を渡り徳島の鳴門まで
妻の運転でドライブをした。

 その夜は、温泉とバイキング料理で
心もお腹も満たされた至福の時間と
枕を並べた幸せな時間を追いかけていた。

 男性が発した何気ない言葉が
思い出の3.15が特別な記念日にもなった。

 旅は道連れ世は情け
旅の出会いがあるから面白い

タイに住む娘に会いたいなぁ  


Posted by しおちゃん at 08:16Comments(0)ファミリー

2024年03月17日

息子を訪ねて


生田神社
旅のあと

 兵庫県で、妻と過ごした
3泊4日の旅を終え神戸空港から
那覇に向かう機内でこのブログを
書いている。

 この4月から大学2年生に進級する
息子と2月上旬妻と一緒にzoom対談をした。

 しおちゃんが、十代の頃に聞いた
さだまさしの「案山子」にある歌詞

 元気でいるか 街には慣れたか♩
友達できたか 寂しかないか🎶
お金はあるか 友達できたか🎵

 一人暮らしをする息子が口にする
言葉は日本の将来を憂いていた。

 前期に比べて後期は思うように
単位を取れなかった要因として
自分なりに解説する息子の表情から
しおちゃんの脳裏にさだまさしの曲が
流れていた。

 妻に息子とゆっくり話がしたいので、
神戸に行かないか?と言うと
 「zoomで話したからいいでしょう」
と返事されたので
どんな環境で生活しているか気になるし
息子に会いたいから行きたいと言うと
妻は理解してくれた。

 3月14日20時発のフライトで✈️
神戸空港から三宮のホテルで一夜を過ごし
翌朝は、昨年息子の受験に付き添いした
妻が合格祈願をした生田神社に夫婦で参拝した。

 生田神社から三宮駅近くにある
阪神大震災直後に沖縄から職場仲間と
駆けつけ一週間炊き出しのボランティア活動をした
吾妻小学校(現在は神戸市生涯学習支援センター)の
跡地に足を運んだ。

 人生の大きな分岐点になった
ボランティア活動を体験した場所で
しおちゃんは、時の流れと何気ない
日常を過ごす事ができ、生かされいることを
お天道様に向かい感謝の気持ち捧げた。

 ホテルに戻りチェックアウトの手続きを済ませ
レンタカー会社に向かい神戸須磨区にある
板宿駅に向かい隣町の垂水区に住む息子と合流して
須磨寺境内を約2時間散策して淡路島にある
慶野松原にある温泉宿に向かってから
息子と過ごした時間を思い出しているが
3時間前に三宮駅で別れたばかりの息子が
とても愛しく感じている。

 空港内にある讃岐うどん専門店で
ランチをしながら妻に楽しかったと
口にすると呼応してくれた。

 祭りのあとの様な気持ちが
しおちゃんを襲っていた。

 搭乗ゲートで出発待ちをしていると
妻が一言「楽しかったね」とまた口にした。

 ブログをアップしながら
旅の余韻に浸っているしおちゃんは、
座席で寝息を立てている妻の寝顔と
窓の外に広がる雲の絨毯の景色に
見惚れてながら今回の旅で感じた
ブログネタを整理していた。

次回 一粒万粒日に続く  


Posted by しおちゃん at 16:40Comments(0)ファミリー

2024年03月12日

父親記念日


親父の眠る墓から目にする朝陽

娘24歳

 200年3月12日しおちゃん
満36歳の年に神様から授かった命を
大事にお腹の中で育んでいた妻の
出産に分娩室で立ち会った
大切な記念日である。

 一所懸命にいきんでいた妻の手を
握っていたあの時間を忘れる事が出来ない。

 高3になってマレーシアの大学に
興味を抱いた娘は、夏休みの間
クアラルンプールにある学校に
語学留学した。

 17歳の夏の体験が、娘の人生観を
大きく変えたとしおちゃんは思っている。

 娘の進路希望を受け止めた妻から
語学留学させたいと相談があったので
迷わず即答した。

 英文科で学んだ妻は、海外留学の夢を
持っていたが果たせなかった。

 しおちゃんも二十歳の頃
アルバイト先だったサントリーの役員から
アメリカに行く気はないかと言われ
母親に相談したが、反対され断念した。

 その何年か後に父親にその話をすると
勿体無いと叱られた。

 当時は、両親が別居していて
母親が二人の妹を育てている姿を
見ていたしおちゃんは、母の反対を
押し切ることはできなかった。

 高校を卒業して東京で生計を立てていた
若いしおちゃんは、外国での生活に
憧れを持っていたのでチャンスだった。

 相談する為、同級生二人と
東京から鈍行列車で大阪に行き
人生初の新幹線に乗って博多駅で
乗り換え大分に住む妹を訪ねた。

 しおちゃんにとっては、
あの時の大分訪問が人生の大きな
ターニングポイントになったと思う。

 もしあの時、自分の事を一番に
考えていたら自分の人生はどうなったのか・・

 娘は、高校を卒業してから
セブ島で10ヶ月の語学留学を体験して
更に人生観を大きく磨いた。

 思うところがあったのだろう
沖縄に戻ってきた娘は、海外で生活する
夢を叶えるために準備をしていたが、
まさかのコロナ禍に遭遇した。

 成人式の晴れ着を期待していたが、
娘に尋ねると式典には興味がないと
言うのでそれならば、
お母さんと旅行にでも行けばいいと
話した。

 バンコクに出発する朝
妻がラフな格好でスーツケースではなく
リックを背負っているので不思議な
気持ちで問いただすと
「バックパッカーだもん」。

 半年前バンコクに旅行したことのある
娘もバックパッカーだったと帰国してから
知った。

 娘の行動力はどこから来るのか
父親としては、心配するどころか
感動が先たち親冥利に尽きるとは
まさに娘の成長なのである。

 コロナ禍で行動が制限されるのが
耐えきれなくなったのか、富士山が
毎日目にする事ができる土地で一人暮らしを
始めた娘は、コロナ禍が終息するやいなや
就職活動を始めた娘は上場企業でタイに
現地法人のある会社に就職した。

 憧れの海外生活を始めた娘は、
いい年足らずの間にカンボジア・ラオス
マレーシア・韓国と旅して来月はスリランカ
の予定がある。

 娘の存在は、しおちゃんの人生を
豊にしてくれている。
 過去は変えられないというが、
心の傷や嫌な思い出も全てを彼女の
お陰で楽しくさえ感じたりする。
笑い話で語れるのである。

 還暦を迎えても青春を謳歌している
つもりでいるが、娘の成長は歳の積み重ねを
実感すると同時に気力を湧き立たせてくれる。

 3月12日は、しおちゃんも妻も
親になった記念すべき日でもある。

 娘が生まれる前年の3月11日は
妻と結納を交わした日であるが、
東北大震災の日でもある。

 被災者の冥福を祈りその翌日には
親になった記念日。

 神様から与えられた命を大切に
大事に祈る日でもある。

 愛する娘よ生まれてくれて
ありがとう。感謝

 貴女の生き方を見習ってお母さんと
一緒に人生をエンジョイします。

   


Posted by しおちゃん at 11:24Comments(0)ファミリー

2024年03月11日

名護親方


程順則像

2024沖縄一周5日目
3月9日(土)

 この日は、3時起床
 5時に自宅を出発して奥武山公園内の
神社沖宮に参拝して那覇那覇バスターミナル
6時10分発の高速バスで北上する。

 名護警察署手前にある世冨慶バス停で
下車して5日目の出発地点二見を通過して
東村のサンライズひがしを目指して歩く。

 途中世冨慶橋の欄干にある
琉球偉人「程順則(名護親方)」の銅像と
向き合う。

 名護親方は、琉球王府を代表する使節と
して計5回も中国に赴いていて4回目の
渡中のおり『六諭衍義(りくゆえんぎ)』を
自費で印刷して1708年に持ち帰る。

 のち薩摩を経由して八代将軍吉宗に
献上され江戸時代中期から明治初めに
かけて、庶民教育の教科書として日本全国の
寺子屋で使用され広まったと聞く。

 本来なら5日目のスタートは、
前回の最終地点である二見入口まで
バスで移動して歩き始めるのだが、
程順則の銅像からパワーを貰いたくて
このコースにした。

 沖縄一周としては、ちょっと寄り道には
なるがそんな事は、問題ではなく
自分だけのルールなので楽しめれば、
いいのである。

 ただ二見から歩けば、東村の
コミュニティーバスの13時半発に
乗れず16時半発で国道58号に出て
辺土名線でバスターミナルを経由して
那覇の自宅に帰ることになるので
20時を過ぎるのが悩ましかったが、
程順則像の魅力の前に時間ロスは、
どうでも良かった。

 気温14℃と肌寒い日ではあったが、
快晴の天気に恵まれ15時過ぎには
目的地に着くので時間の過ごし方を
考えていた。

 平良三叉路の手前で民宿らしき建物が
あったので、駐車場にいた男性に声をかけて
民宿だと分かった。(看板がない民宿)

 雑談をしていると男性はしおちゃんと
同じ昭和38年生まれの同年齢だった。

 次回は、東村から国頭安田までのコースに
なるので前泊するかどうか悩んでいていたので
男性からの情報は大いに助かった。

 歩いて沖縄一周している事、週末の土曜日だけ
歩いている事を橋している内、農業関連の仕事を
している男性は、自分が持っている特許内容を
説明しながらカンボジアで指導した体験と
東村の事情を色々聞かせてくれた。

 しおちゃんに負けず劣らずの
人懐っこさで二人は意気投合して
連絡先を交換してコミュニティーバス停を
目指して別れた。

 歩き始めて暫くするとクラクション音で
振り返ると先ほどの男性がバスで
名護まで行くのであれば、自分も名護にある
自宅に帰るので、「どうぞ乗ってください」と
ありがたい言葉を発してくれる。

 神様のプレゼントなのか
18時には帰宅できたので、妻との
外食デートの約束が早くなり
たくさん夫婦の会話を楽しむ事が出来た。

 翌週に迫った息子に会いに行く
夫婦旅行と毎週土曜日に義父の介護に
行っている妻からの報告に耳を傾ける。

 神様のプレゼントのお陰で
有意義な一日を過ごせた。

 生かされている事に感謝 感謝

 この日の万歩計55,242歩37,012m
5日通算 267,343歩 179,150m  


Posted by しおちゃん at 04:49Comments(0)沖縄一周の旅

2024年03月09日

ブギウギ


奥の深い場面

人の絆

 朝ドラ大ファンのしおちゃん
現在放映中の「ブギウギ」にも
大ハマりしている。

 前回放映された「らんまん」を
鑑賞中にも何度かこのドラマは
これまでで5本の指に入るくらいの
名作だと親友のアキラ君と語り
あっていた。

 ブギウギの出演者紹介の
動画と音楽がしおちゃんの
ノスタルジアを呼び起こしている。

 しおちゃんが、このドラマの
キーワードを挙げるとすると
「心の絆」「時代」

 今週の「マミーのマミーや」
にしおちゃんキーワードが
凝縮されている。

 主人公の名前「鈴子」「写真」「亀🐢
娘の愛子がおじいちゃんどこ行ったのと
聞かれた主人公が空間を指さして
この辺だと答えるシーン。

 寝ているお父さんに自分の思いを語り
起こされた父親が娘に語る言葉の一つ一つ。
 冒頭の写真の母と娘と親戚のおじさん
亡き弟が可愛がってくれた亀との別れと
その後ろにある「忌中」の文字
番組作者の心憎い演出の虜になっていた。

 血の繋がりより心の繋がりだと
あの世に先に行った亡き妻と弟の
名前を同時に言葉にした
育ての親との場面に感動した翌日。

 今度は血の繋がりのある産みの母親との
会話する場面の最後にマミーのマミーや
愛子のおばあちゃんやと言葉にする
主人公のスズ子。

 このドラマの主人公は、
しおちゃん世代なら誰でも知っている
水谷豊とキャンディーズメンバーの
伊藤蘭の娘、趣里(しゅり)。

 生みの親役を演じるのは
数年前の朝ドラ「こころ」で主演を
務めた中越典子の母親役は伊藤蘭だった。

 主人公のこころは子連れの医師と
結婚し血の繋がりのない息子を育てる
ために自分の憧れだった客室乗務員の
仕事を辞職して家業の鰻屋の女将として
孤軍奮闘するドラマだった。

 ドラマの主人公の育ての親役の
水川あさみも数年前に湯布院を舞台にした
「風のハルカ」に出演していた。

 湯布院は娘5歳息子1歳の時
初家族旅行をした思い出深い土地である。
あの水川あさみが母親役で中越典子の
年老いた姿に時代の流れを感じていた。

 このドラマは血の繋がり、心の繋がり、
家族の絆、時代の変化、与えられた命、
人の生き様、出会い、別れ、
消えない心の傷さえも生きるエネルギーに
変える目に見えないパワーと数え上げたら
キリのなたくさんの表現ができる。

 朝ドラは面白い。

 



  


Posted by しおちゃん at 04:40Comments(0)読書 テレビ映画