2025年02月09日
人生は二度ある

宮古神社参拝
毎日が人生の始まり
2019年夏、「故郷宮古島・池間島・栗間島
伊良部島・下地島令和独り歩き」を達成した後
しおちゃんは「心の過去は変えられる」と確信を持った。
2019年と言えば平成から令和に改元した
歴史的な一年だった。
その年5月1日のGWに
しおちゃんは、沖縄県が戦後27年の
アメリカ占領下から本土復帰した
1972年5月15日に琉球政府道一号線から
日本国一般国道58号線と生まれ変わった。
鹿児島市内(700m)の通称朝日通りを起点に
奄美大島・沖縄本島を繋ぐ一般国道58号線は
沖縄県の本土復帰を象徴する国道を
「平成~令和改元記念特別企画
国道58号線徒歩の旅10日」
を実行した。
宮古島に長期出張している期間を利用しての
宮古島一周徒歩の旅は、池間大橋・来間大橋・
伊良部大橋を宮古島の先人たちが、建設してくれた
お陰だと感謝の気持ちを胸に抱きながら
歩く事が出来たとしおちゃんは
強く感じていた。
1982年3月に島を離れ人生の新しい門出の
1982年時点では、池間大橋計画がある事は
耳にしていたがその後、来間大橋・伊良部大橋を建設するなど
それこそ夢にも思わなかった。
当時のしおちゃんからすれば、沖縄本島から
遠く離れた宮古島に三本の橋が出来るなど
それこそ宇宙旅行レベルの話だと思っていた。
しおちゃんは、高校を卒業して
9歳から18歳まで育った宮古島を
夢と希望もあったが、どちらかと言えば
2度とこの島で生活したくないと言った
切ない気持ちを抱えたままの旅立ちだった。
友人が、宮古島市長選挙に当選して
熱狂と興奮が冷め止まない日付を跨いだ
その日の深夜選挙事務所を抜けて
同級生が集まった席で余韻に酔いしれながら
各自あいさつをしたが、その中の一人が。
「登さんのお陰でふるさと宮古島愛に
改めて芽生えた」
と口にして続けて
「正直言って18歳で宮古島を離れた時は
帰りたくない気持ちがあった」
人それぞれだと頭では理解していたが、
順風満帆な幸せな生活をしていると感じていた
友の過去の記憶にしおちゃんは衝撃を受けながらも
感慨深い気持ちになり人の人生を考えさせられた。
「一回しかない自分の人生の
主人公は自分自身だから出来るだけ
人生初体験に出来るだけチャレンジする」
そんな50代の人生目標を計画して殆ど
実行することが出来たしおちゃんは
達成感をいくつも体験することが出来た。
多くの友人知人からの応援もあったが、特に
「国道58号徒歩の旅」「宮古島一周徒歩の旅」
「日本縦断独り歩き」で立ち上げた
Lineグループ仲間からの声援は
しおちゃんの背中を強く押して頂けたからこそ
全ての困難も楽しみながら大きな夢を
実現することが出来た。
今回の宮古島滞在でも立ち上げた
「登くん応援団(在沖)」からもたくさんの
勇気と希望だけでなく筋書きのない人生ドラマを
味わうことが出来た。
登くん応援団(在沖)の最大目的は、
市長選挙に出馬した嘉数のぼるさんの一大決心を
仲間で支える事だった。
登さんの大願成就が叶ったあと
メンバーから発せられる祝福メッセージの
嵐に触れた瞬間幸せな気分にさせられ
感謝の気持ちでいっぱいになった。
還暦が、人生の生まれ代わりと言われている所以を
しおちゃんは、今回の宮古島滞在で悟ったような気がする。
人生は、一回しかないのではなく
それを強く感じた時こそ2回目の人生が
始まるのだとしおちゃんは強く確信した。
今回の宮古島市長選挙で関わった
全ての出会いに感謝するとともに
しおちゃん自身の2回目の人生の門出の
きっかけを当ててくれた登さんに
心から感謝します。
しおちゃんの座右の銘である
「感謝・感動・感激
温故知新の心で」
これからの人生でも引き続けて
大事にすることにする。
登さんメッセ
嘉数のぼるが訴えた思いに強く共感するのは
宮古島を愛する者なら誰もが持っていると思うのは
しおちゃんだけだろうか・・・・
『嘉数のぼる出馬表明挨拶』
ここで住みたい・ここで働きたい
ここで子育てをしたい・ここを誇りに思う
島を出てもまた戻ってきたい
そんな島にするのが、私の仕事です。
豊かさとは、暮らしが安心で、未来に希望が持てる事。
おじいちゃんおばあちゃんも、親も子も孫も、
この島で幸せを感じられることです。
宮古島はただの観光地じゃない。
ここには、宮古島で生きる人たちの想いが詰まっています。
だから私は、この島を守るために
全身全霊で働きます!
この宮古島を、次の世代にしっかりと引き継げる
場所にしましょう。
嘉数登と一緒に宮古島の未来を創る会
Posted by しおちゃん at 19:22│Comments(0)
│ふるさとの風景