2025年02月27日
夢ありがとう
友の背中から懐古(備忘録)
宮古島の喧騒から那覇に戻り
塩ちゃんは、少し立ち止まって
日本縦断徒歩の旅を思い返して
今だから言える備忘録を思いついた。
緊急事態宣言が解除され
旅の出発間に元同僚と栄町の
居酒屋で飲んだ。
まるでコロナ禍が終息しているかの
雰囲気の店内にしおちゃんは一抹の不安を
感じていた。
スタート地点の鹿児島で見た
沖縄とは違う市民の高い危機感の
空気だった。
観光として名高い門司・下関・錦帯橋・
広島の安芸宮島の客船乗り場の閑散とした
光景を目にしながらもコンビニなどは
日常を取り戻しつつあった。
ゴミも捨てられたしトイレも使用できる様に
なっていたが神戸から大阪・広島と歩いている時
東京・鹿児島の感染拡大とアメリカ独立記念日
パーティー発生と沖縄初となるクラスター発生の
報に触れた。
順調に歩いて神戸に着いた頃
街中の雰囲気の違いが肌感覚で
伝わってきた。
5月6月とコロナ感染者が全国でも
圧倒的に感染率が低かった沖縄での感染者は
今後歯止めが利かなくなるのでは不安を持った。
県外を歩いていて沖縄県内の目には見えないが
危機意識感がどうしても低いように感じていた。
そんなか中神戸~大阪~京都と歩いたが
市街地の空気感が全く違っていた。
京都祇園から琵琶湖のある滋賀県に向けて
歩き始めた土砂降りの天気でいくつかコンビニを
利用したが、ゴミ箱は使用不可になっており
勿論トイレは使用できなかった。
沖縄県知事が東京と鹿児島帰りの県民は
家族を含めた外出自粛要請の記者会見を知り
沖縄らしい判断と受け止めた。
(観光客のイメージダウンは避けられない)
しおちゃんは、歩いている時は
マスクをしていなかったが、人通りの多い道では
マスク着用は必須だった。
宿泊先に着くと洗濯一時間、その間に湯船で
その日の疲れをとりストレッチで身体のケアをして
いた。
昼間はコンビニなどで、手洗いうがいを
頻繁にしていた。
夜もくたくたなのでお酒大好きの
塩ちゃんでも身体がお酒を受け付けてくれない
状態だったことが幸いして睡眠が深かった。
いくら体調コンディションの調整には
自身があるとは言え目にする街の風景や
耳にする報道に不安もあったが絶対に
夢を絶対に実現する強い意識もぐらついている時に
京都選出で全国区の知名度を持つ二人のポスターを
目にして当時現職国会議員の野球部先輩に電話をした。
午前中の忙しい時間にも関わらず電話口に出た
先輩の声はとても張りのある声で
「SNS見てるよ頑張っているなぁ」
と声を聞いてから先輩に感謝の言葉を告げた後
何も言わないで「がんばれ」と言って欲しいと
お願いすると
「がんばれ・がんばれ・がんばれ塩川」
と言ってくれた。
その後、那覇に住む親しい二人の友人にも
電話を入れて同じようにお願いした。
しおちゃんは悩みながら歩いていると
雄大な琵琶湖の景色が目に飛び込んできた
タイミングで沖縄警察の要職にある幼馴染の
名前が携帯に表示され幸せな気分になった。。
道中で初めて聞く幼馴染の着信に
勇気が再燃する想いで耳を傾けると
「しゅり帰って来い」と一言放ち
彼なりの表現で旅の続行をあきらめる様に
促してきた。
彼の立場としての言葉には理解できる
部分もあったが、道中はじめて電話してきて
(これか?)と長い付き合いだからこそ
寂しくも感じた。
幼馴染と会話を交わした後、
沖縄観光業界の重鎮である親しい友人に
地元の空気感を確認した。
彼もLineグループの一人だったので
しおちゃんの状況を良く知っていたので
旅の続行を相談すると
「帰って来るのであれば、
東京からではなく名古屋ですね」
と強調された。
歩き続けているとウォーキングをしていた
年配の二人の女性と立ち話をすると
「東京には行かない方がいいですよ」
と真顔で言われた。
その夜は、お酒も飲まずコンビニ弁当を
部屋で食べながらテレビニュースをとネットで
沖縄の状況を確認しながら熟慮して就寝した。
翌朝、5:00に目覚めたしおちゃんは
断腸の思いで妻の携帯を鳴らした。
妻も丁度起きた様子だった
私「中断しようと考えているけど」
妻「いつ帰るの?」
私「帰るとしたら7月14日」
妻「太陽(長男)の誕生日だ!」
息子17歳の誕生日をしっかり失念していた
自分が情けなく思った。
私「そうだったね」「中断するよ」
と言葉にはしたものの・・・・
当時の西日本の天気は荒れていて
九州を離れて五日後には熊本豪雨があり
名古屋に向かう前日までは岐阜飛騨高山地方は
集中豪雨で天気は荒れていた。
それでも岐阜から名古屋までの徒歩の旅は
晴れていて那覇に帰る日の中部国際空港は
雨が降っていて沖縄についてから強雨になったと
テレビで知る。
京都から近江・長浜・大垣の徒歩の旅は
凄い雨でしおちゃんの靴は、防水加工が
されているとは言え靴下もびしょびしょで
その機能を果たせなかった。
中断を決断してからは、自分なりに納得している
つもりだったが、お天気が代弁してくれたのか
長浜~大垣に向かう道中に日本人なら誰でも
知っているであろう天下分け目の戦いと言われた
関ヶ原合古戦場決戦場跡を歩いた。
大勢の御霊が犠牲になった地で
塩ちゃんは言い知れぬ思いが頭を過ると共に
平和の世の有難みを噛みしめていた。
名古屋では、沖縄県の出先機関で働く
友人の後輩が迎えてくれた。
この日は日曜日だったので友人の後輩も
ホテルで待ってくれていて塩ちゃんも
翌日は歩く予定がないのでゆったりと
名古屋の夜を楽しんだが、それでも二時間が
限界だった。
名古屋で中断した事で再出発の際は、
愛知県沖縄郷友会の皆さんとも出会い
現在でも親交が続いている。
沖縄に帰る決断をグループLineにて
報告すると多数の人が良い決断をしたと
褒め讃えていたが、塩ちゃんの苦渋の決断を
理解している人達から個人Lineに温かい
メッセージが届いたことは生涯忘れられない
思い出となっている。
沖縄に帰り代議士の先輩を訪ねると
先輩「なぜ中断した?」
私 「コロナ禍の影響を考えて」
先輩「そんな事を言ったら何もできない」
その言葉を耳にして瞬間しおちゃんは
ハンマーで頭を殴られた気分になったが、
当時の判断が良かったのか?
たまに思い出すことがある。
追伸
降りしきる雨の中を歩き続けたのが、
原因で右足の五本の指は全部豆が出来
最悪の状態だった。
それでも踏ん張って歩けたかもしれないが
その体験があったからこそ歩き方改革に
取り組めたお陰で、名古屋から宗谷岬まで
両足とも痛める事が一度もなかったことは、
断腸の思いで中止決断を実行した事に対する
神様からのプレゼントだと信じている。
宮古島の喧騒から那覇に戻り
塩ちゃんは、少し立ち止まって
日本縦断徒歩の旅を思い返して
今だから言える備忘録を思いついた。
緊急事態宣言が解除され
旅の出発間に元同僚と栄町の
居酒屋で飲んだ。
まるでコロナ禍が終息しているかの
雰囲気の店内にしおちゃんは一抹の不安を
感じていた。
スタート地点の鹿児島で見た
沖縄とは違う市民の高い危機感の
空気だった。
観光として名高い門司・下関・錦帯橋・
広島の安芸宮島の客船乗り場の閑散とした
光景を目にしながらもコンビニなどは
日常を取り戻しつつあった。
ゴミも捨てられたしトイレも使用できる様に
なっていたが神戸から大阪・広島と歩いている時
東京・鹿児島の感染拡大とアメリカ独立記念日
パーティー発生と沖縄初となるクラスター発生の
報に触れた。
順調に歩いて神戸に着いた頃
街中の雰囲気の違いが肌感覚で
伝わってきた。
5月6月とコロナ感染者が全国でも
圧倒的に感染率が低かった沖縄での感染者は
今後歯止めが利かなくなるのでは不安を持った。
県外を歩いていて沖縄県内の目には見えないが
危機意識感がどうしても低いように感じていた。
そんなか中神戸~大阪~京都と歩いたが
市街地の空気感が全く違っていた。
京都祇園から琵琶湖のある滋賀県に向けて
歩き始めた土砂降りの天気でいくつかコンビニを
利用したが、ゴミ箱は使用不可になっており
勿論トイレは使用できなかった。
沖縄県知事が東京と鹿児島帰りの県民は
家族を含めた外出自粛要請の記者会見を知り
沖縄らしい判断と受け止めた。
(観光客のイメージダウンは避けられない)
しおちゃんは、歩いている時は
マスクをしていなかったが、人通りの多い道では
マスク着用は必須だった。
宿泊先に着くと洗濯一時間、その間に湯船で
その日の疲れをとりストレッチで身体のケアをして
いた。
昼間はコンビニなどで、手洗いうがいを
頻繁にしていた。
夜もくたくたなのでお酒大好きの
塩ちゃんでも身体がお酒を受け付けてくれない
状態だったことが幸いして睡眠が深かった。
いくら体調コンディションの調整には
自身があるとは言え目にする街の風景や
耳にする報道に不安もあったが絶対に
夢を絶対に実現する強い意識もぐらついている時に
京都選出で全国区の知名度を持つ二人のポスターを
目にして当時現職国会議員の野球部先輩に電話をした。
午前中の忙しい時間にも関わらず電話口に出た
先輩の声はとても張りのある声で
「SNS見てるよ頑張っているなぁ」
と声を聞いてから先輩に感謝の言葉を告げた後
何も言わないで「がんばれ」と言って欲しいと
お願いすると
「がんばれ・がんばれ・がんばれ塩川」
と言ってくれた。
その後、那覇に住む親しい二人の友人にも
電話を入れて同じようにお願いした。
しおちゃんは悩みながら歩いていると
雄大な琵琶湖の景色が目に飛び込んできた
タイミングで沖縄警察の要職にある幼馴染の
名前が携帯に表示され幸せな気分になった。。
道中で初めて聞く幼馴染の着信に
勇気が再燃する想いで耳を傾けると
「しゅり帰って来い」と一言放ち
彼なりの表現で旅の続行をあきらめる様に
促してきた。
彼の立場としての言葉には理解できる
部分もあったが、道中はじめて電話してきて
(これか?)と長い付き合いだからこそ
寂しくも感じた。
幼馴染と会話を交わした後、
沖縄観光業界の重鎮である親しい友人に
地元の空気感を確認した。
彼もLineグループの一人だったので
しおちゃんの状況を良く知っていたので
旅の続行を相談すると
「帰って来るのであれば、
東京からではなく名古屋ですね」
と強調された。
歩き続けているとウォーキングをしていた
年配の二人の女性と立ち話をすると
「東京には行かない方がいいですよ」
と真顔で言われた。
その夜は、お酒も飲まずコンビニ弁当を
部屋で食べながらテレビニュースをとネットで
沖縄の状況を確認しながら熟慮して就寝した。
翌朝、5:00に目覚めたしおちゃんは
断腸の思いで妻の携帯を鳴らした。
妻も丁度起きた様子だった
私「中断しようと考えているけど」
妻「いつ帰るの?」
私「帰るとしたら7月14日」
妻「太陽(長男)の誕生日だ!」
息子17歳の誕生日をしっかり失念していた
自分が情けなく思った。
私「そうだったね」「中断するよ」
と言葉にはしたものの・・・・
当時の西日本の天気は荒れていて
九州を離れて五日後には熊本豪雨があり
名古屋に向かう前日までは岐阜飛騨高山地方は
集中豪雨で天気は荒れていた。
それでも岐阜から名古屋までの徒歩の旅は
晴れていて那覇に帰る日の中部国際空港は
雨が降っていて沖縄についてから強雨になったと
テレビで知る。
京都から近江・長浜・大垣の徒歩の旅は
凄い雨でしおちゃんの靴は、防水加工が
されているとは言え靴下もびしょびしょで
その機能を果たせなかった。
中断を決断してからは、自分なりに納得している
つもりだったが、お天気が代弁してくれたのか
長浜~大垣に向かう道中に日本人なら誰でも
知っているであろう天下分け目の戦いと言われた
関ヶ原合古戦場決戦場跡を歩いた。
大勢の御霊が犠牲になった地で
塩ちゃんは言い知れぬ思いが頭を過ると共に
平和の世の有難みを噛みしめていた。
名古屋では、沖縄県の出先機関で働く
友人の後輩が迎えてくれた。
この日は日曜日だったので友人の後輩も
ホテルで待ってくれていて塩ちゃんも
翌日は歩く予定がないのでゆったりと
名古屋の夜を楽しんだが、それでも二時間が
限界だった。
名古屋で中断した事で再出発の際は、
愛知県沖縄郷友会の皆さんとも出会い
現在でも親交が続いている。
沖縄に帰る決断をグループLineにて
報告すると多数の人が良い決断をしたと
褒め讃えていたが、塩ちゃんの苦渋の決断を
理解している人達から個人Lineに温かい
メッセージが届いたことは生涯忘れられない
思い出となっている。
沖縄に帰り代議士の先輩を訪ねると
先輩「なぜ中断した?」
私 「コロナ禍の影響を考えて」
先輩「そんな事を言ったら何もできない」
その言葉を耳にして瞬間しおちゃんは
ハンマーで頭を殴られた気分になったが、
当時の判断が良かったのか?
たまに思い出すことがある。
追伸
降りしきる雨の中を歩き続けたのが、
原因で右足の五本の指は全部豆が出来
最悪の状態だった。
それでも踏ん張って歩けたかもしれないが
その体験があったからこそ歩き方改革に
取り組めたお陰で、名古屋から宗谷岬まで
両足とも痛める事が一度もなかったことは、
断腸の思いで中止決断を実行した事に対する
神様からのプレゼントだと信じている。
Posted by しおちゃん at 10:24│Comments(0)
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