2025年04月19日
斎藤元彦知事
兵庫県の百条委員会問題が
出口の見えないトンネルを彷徨っている
感を受けているのは塩ちゃんだけだろうか?
沖縄県でもワシントン事務所問題で
百条委員会が開催されていたが兵庫県程
全国的な話題になっていない様に感じているのも
塩ちゃんだけだろうか?
兵庫県知事は、県議会満場一致の採決で
辞任に追い込まれ県知事選挙に再出馬して
兵庫県民の信認をうけ再度県知事になった。
兵庫県立大学で学ぶ息子を持つ
父親としては、とても気になる話題で
対岸の火事ではない。
2023年度の入学式はコロナ禍の影響で
入場制限があったので妻も私も息子の晴れ舞台に
参加することが出来ずオンラインで会場の雰囲気を
味わい楽しんだ。
その入学式で挨拶をしたのが、現在時の人として
注目を浴びている斎藤元彦知事だった。
代読でもなく県知事直々に挨拶をしている姿に
感動したが、よく考えてみると県立大学なので
当然だと思い直した。
斎藤元彦知事に対する第一印象は、
立ち居振る舞いが凛とした若々しい知事さんで
挨拶の内容にも感動した事を覚えている。
それからしばらくすると兵庫県立大学が
兵庫県民の学生に対して教育費無料宣言した
報道に触れ塩ちゃんの斎藤元彦知事に対する
好印象度は急上昇して喜んだが
残念なことに教育費無料対象者は
過去三年間兵庫県内に居住している事が
絶対条件だったので我々家族はその恩恵を
受けられなかったが、素晴らしい政策を
実行した兵庫県民として暮らしている息子が
父親として誇らしく思った。
息子の住む隣町の須磨区は沖縄地上戦で
犠牲になった終戦時の沖縄県知事島田叡氏の
出身地であり昨年夫婦で息子の住む神戸に
訪問した際故人の菩提寺である須磨寺に家族三人で
お参りをして近くにある島守の広場にも
立ち寄り故人の若い頃に思いを馳せながら
息子に島田さんの功績を教示した。
兵庫県と沖縄県は沖縄県が本土復帰した年に
友愛県提携の協定書を交わしており明治中期に
沖縄~本土航路の開設に以来、神戸港は
沖縄県民の受け入れに重要な役割を果たしており
兵庫県には多くの沖縄県出身者の子孫たちが
が多く暮らしている。
徳島県では、沖縄県出身者の大学在学者には
公的資金が援助されていると聞いたことがあるが、
将来兵庫県も同様な措置が取られる可能性が
あるのではないかと塩ちゃんは妄想レベルで
期待している。
百条委員会の報道規模が、兵庫県と沖縄県を
比較すると寂しく感じもするが、塩ちゃんの
思い過ごしだと思うようにしている。
斎藤元彦知事のパワハラとかおねだりとか
その内容に触れてもどこか釈然としない
感情もあるが、そんなご時世なのか良くも悪くも
自問自答している自分を悩ましく感じている。
斎藤元彦知事は、自分の給与をカットして
公用車もコスト削減と先ずは身を切る改革に手を付け
公務員最大の特権ともいえる県職員OBの外郭団体への
再雇用規制を断行した。
1995年の阪神大震災の地震発生から一週間後
塩ちゃんは、当時勤務していた会社の民間ボランティアの
一人として吾妻小学校の校庭で被災者の食事炊き出しに
汗を流した体験を持っている。
復興支援の為、沖縄から来た我々の行動は
全国ニュースで取り上げられその時の沖縄での
報道はまるで映画のように熱狂ぶりで会社に
メールや電話が凄いことになっていた事を鮮明に
覚えている。
震災で変わり果てた光景を目の当たりにした
一人して復興から立ち直る神戸の街並みは
三ノ宮駅周辺を歩くたびに生きる希望を与えて
くれてもいる。
斎藤知事は出直し選挙で勝利した事で
それなりの禊を果たしはしたが、これからは
県政改革を止めずに前進してくれると信じている。
ここまでこじれたら県議会も解散して
出直し選挙で県民の審判を仰ぐのも
いいのではないか・・・
斎藤さんの立ち居振る舞いから
時代の移り変わりを感じているのは
塩ちゃんだけだろうか・・・
「がんばろー神戸」の標語を懐かしく感じている
出口の見えないトンネルを彷徨っている
感を受けているのは塩ちゃんだけだろうか?
沖縄県でもワシントン事務所問題で
百条委員会が開催されていたが兵庫県程
全国的な話題になっていない様に感じているのも
塩ちゃんだけだろうか?
兵庫県知事は、県議会満場一致の採決で
辞任に追い込まれ県知事選挙に再出馬して
兵庫県民の信認をうけ再度県知事になった。
兵庫県立大学で学ぶ息子を持つ
父親としては、とても気になる話題で
対岸の火事ではない。
2023年度の入学式はコロナ禍の影響で
入場制限があったので妻も私も息子の晴れ舞台に
参加することが出来ずオンラインで会場の雰囲気を
味わい楽しんだ。
その入学式で挨拶をしたのが、現在時の人として
注目を浴びている斎藤元彦知事だった。
代読でもなく県知事直々に挨拶をしている姿に
感動したが、よく考えてみると県立大学なので
当然だと思い直した。
斎藤元彦知事に対する第一印象は、
立ち居振る舞いが凛とした若々しい知事さんで
挨拶の内容にも感動した事を覚えている。
それからしばらくすると兵庫県立大学が
兵庫県民の学生に対して教育費無料宣言した
報道に触れ塩ちゃんの斎藤元彦知事に対する
好印象度は急上昇して喜んだが
残念なことに教育費無料対象者は
過去三年間兵庫県内に居住している事が
絶対条件だったので我々家族はその恩恵を
受けられなかったが、素晴らしい政策を
実行した兵庫県民として暮らしている息子が
父親として誇らしく思った。
息子の住む隣町の須磨区は沖縄地上戦で
犠牲になった終戦時の沖縄県知事島田叡氏の
出身地であり昨年夫婦で息子の住む神戸に
訪問した際故人の菩提寺である須磨寺に家族三人で
お参りをして近くにある島守の広場にも
立ち寄り故人の若い頃に思いを馳せながら
息子に島田さんの功績を教示した。
兵庫県と沖縄県は沖縄県が本土復帰した年に
友愛県提携の協定書を交わしており明治中期に
沖縄~本土航路の開設に以来、神戸港は
沖縄県民の受け入れに重要な役割を果たしており
兵庫県には多くの沖縄県出身者の子孫たちが
が多く暮らしている。
徳島県では、沖縄県出身者の大学在学者には
公的資金が援助されていると聞いたことがあるが、
将来兵庫県も同様な措置が取られる可能性が
あるのではないかと塩ちゃんは妄想レベルで
期待している。
百条委員会の報道規模が、兵庫県と沖縄県を
比較すると寂しく感じもするが、塩ちゃんの
思い過ごしだと思うようにしている。
斎藤元彦知事のパワハラとかおねだりとか
その内容に触れてもどこか釈然としない
感情もあるが、そんなご時世なのか良くも悪くも
自問自答している自分を悩ましく感じている。
斎藤元彦知事は、自分の給与をカットして
公用車もコスト削減と先ずは身を切る改革に手を付け
公務員最大の特権ともいえる県職員OBの外郭団体への
再雇用規制を断行した。
1995年の阪神大震災の地震発生から一週間後
塩ちゃんは、当時勤務していた会社の民間ボランティアの
一人として吾妻小学校の校庭で被災者の食事炊き出しに
汗を流した体験を持っている。
復興支援の為、沖縄から来た我々の行動は
全国ニュースで取り上げられその時の沖縄での
報道はまるで映画のように熱狂ぶりで会社に
メールや電話が凄いことになっていた事を鮮明に
覚えている。
震災で変わり果てた光景を目の当たりにした
一人して復興から立ち直る神戸の街並みは
三ノ宮駅周辺を歩くたびに生きる希望を与えて
くれてもいる。
斎藤知事は出直し選挙で勝利した事で
それなりの禊を果たしはしたが、これからは
県政改革を止めずに前進してくれると信じている。
ここまでこじれたら県議会も解散して
出直し選挙で県民の審判を仰ぐのも
いいのではないか・・・
斎藤さんの立ち居振る舞いから
時代の移り変わりを感じているのは
塩ちゃんだけだろうか・・・
「がんばろー神戸」の標語を懐かしく感じている
2025年04月16日
妄想→夢→目標
家族の夢話塩ちゃんの夢
大学三回生として新学期を迎えた
息子に電話で親子と言うより男同志の
会話をした。
バンコクの日本企業で働く娘も
新年度を迎え張り切っていると妻から
聞かされた。
女同志は、毎日のように
Lineで連絡を取り合っている。
兵庫県でもバンコクでも通話料金は
無料なので塩ちゃん家族は、文明発達の
恩恵を授かっている。
物価高騰のあおりで家計が大変だと
妻が愚痴をこぼすが、無料で声の便りを
交換できる現状にしおちゃん世代からすれば
隔世の感がある。
息子とは、40分ぐらい長電話した。
三回生になる息子に卒業後の進路を聞くと
まだ決まっていないと言われたので
男のロマンを持つ事が大事だと言った。
先ずは何でもいいからでっかい夢を
持ちできれば妄想からイメージ
するのが一番だと切り出し
妄想と夢は背中合わせだよと伝えると
息子は呼応した。
最近お花見をした時に桜並木より
一本だけある桜の木に心を惹かれたと
言葉にした。
女友達と一緒だったと言うので
いつしか塩ちゃんの若い頃の話になった。
息子とそんな話が出来るとは
父親冥利に尽きるが、妻も女同士で
娘とボーイフレンドの話をしているみたいだ。
子供たちの成長を受けて妻とする会話も
夢と希望の広がりを感じる事が多くなった。
最近妻も長年持ち続けていた
国家資格を目指して勇気ある決断をして
スクールに授業料を納付した。
結婚して初めて彼女は自分の為に
大きな投資をした。
マレーシアとセブ島に語学留学の体験を
持つ娘から背中を押されていた妻は、
初めて言われてから5年目にして勇気を出した。
息子も先月帰省した際にお母さんも
子供優先ではなく自分の人生をエンジョイ
して欲しいと口にしてくれた。
塩ちゃんも親友の大願成就に刺激を受けて
自分の夢を妄想しながら「生涯夢中」の
好奇心旺盛のくすぶっていた炎が再燃してきた。
大学三回生として新学期を迎えた
息子に電話で親子と言うより男同志の
会話をした。
バンコクの日本企業で働く娘も
新年度を迎え張り切っていると妻から
聞かされた。
女同志は、毎日のように
Lineで連絡を取り合っている。
兵庫県でもバンコクでも通話料金は
無料なので塩ちゃん家族は、文明発達の
恩恵を授かっている。
物価高騰のあおりで家計が大変だと
妻が愚痴をこぼすが、無料で声の便りを
交換できる現状にしおちゃん世代からすれば
隔世の感がある。
息子とは、40分ぐらい長電話した。
三回生になる息子に卒業後の進路を聞くと
まだ決まっていないと言われたので
男のロマンを持つ事が大事だと言った。
先ずは何でもいいからでっかい夢を
持ちできれば妄想からイメージ
するのが一番だと切り出し
妄想と夢は背中合わせだよと伝えると
息子は呼応した。
最近お花見をした時に桜並木より
一本だけある桜の木に心を惹かれたと
言葉にした。
女友達と一緒だったと言うので
いつしか塩ちゃんの若い頃の話になった。
息子とそんな話が出来るとは
父親冥利に尽きるが、妻も女同士で
娘とボーイフレンドの話をしているみたいだ。
子供たちの成長を受けて妻とする会話も
夢と希望の広がりを感じる事が多くなった。
最近妻も長年持ち続けていた
国家資格を目指して勇気ある決断をして
スクールに授業料を納付した。
結婚して初めて彼女は自分の為に
大きな投資をした。
マレーシアとセブ島に語学留学の体験を
持つ娘から背中を押されていた妻は、
初めて言われてから5年目にして勇気を出した。
息子も先月帰省した際にお母さんも
子供優先ではなく自分の人生をエンジョイ
して欲しいと口にしてくれた。
塩ちゃんも親友の大願成就に刺激を受けて
自分の夢を妄想しながら「生涯夢中」の
好奇心旺盛のくすぶっていた炎が再燃してきた。
2025年04月13日
ブログの原点
初心忘るべからず
ブログを始めて18年になる。
きっかけは、沖縄一周徒歩の旅達成と
その旅の最大サポーターだった親父の
他界だった。
最近気になって通算投稿数をチェックすると
1865回を数えていた。
18年続けている事に対しては
別に大した思いはないけど1865回の
数字には自分でもびっくりした。
しおちゃんは、自分自身を
支えている歩ちゅう塩ちゃんの存在に
感謝の気持ちでいっぱいになった。
本格的に歩きを始めた当時43歳だった
しおちゃんは、あれから沖縄一周を5回、
辺戸岬~喜屋武岬間ぶっ通し歩き、国道58号
鹿児島市内~種子島~奄美大島~沖縄本島徒歩の旅、
鹿児島市内から北海道宗谷岬までの日本縦断独り歩きの
夢実現を叶えた。
しおちゃんの人生で43歳の決断が無ければ
歩ちゅう塩ちゃんとの出会いはなかったと
思っている。
しおちゃんと別人格の歩ちゅう塩ちゃんは、
人生の師匠でもある。
現在は何か決断をする際は、
もう一人の自分である歩ちゅう塩ちゃんは
どう考えているのか判断を仰ぐようにしているので
思いつくままに行動していた若い頃に比べると
じっくり決断できるようになったとしおちゃんは
捉えている。
コロナ禍真っただ中の2020年6月日本縦断独り歩きに
一歩踏み出したが、様々な事態に巻き込まれ
結局達成したのは2022年6月だった。
しおちゃんブログのタイトルでブログを立ち上げ
歩きながら思いついたブログネタを歩ちゅう塩ちゃんの
頭で整理してアップしていた。
当初に比べると文章力も上達しているが、
満足レベルには、まだまだ遠く及ばない。
文章上達には小説を読むことだと教えられ
これまでどちらかと言えば伝記とか歴史本とか
自己啓発本を好んで読んでいたが読解力を高める為に
官能小説から始めると読書癖が身につき
小説を読む速度が速くなり理解力も深まっていった。
ブログ立ち上げ時は、個人SNSが発達して
いなかったので、先ずは妻や近い友人に紹介して
ブログ内容が伝わっているか確認していた。
ブログを立ち上げた一番のきっかけは、
親父が遺したノートだった。
自分の気持ちを包み隠さず綴っていた
内容に触れた時、親父の対する想いが伝わってきて
成長した子供たちが、しおちゃんブログを読んで
欲しいと願う父親としての想いだった。
高校卒業までの人生年数と同じ18年は、
新しい扉を開け人生の一歩を踏み出す時期
である。
継続は力なりと無我夢中を合わせて
「無我夢中」のしおちゃん造語も
「感道信歩」しおちゃん造語も
ブログがあったからこそ誕生した。
ブログプロフィールに書いた
しおちゃんの夢も大部分が実現した。
しおちゃんブログの立ち上げは
人生の大きな分岐点であり当時43歳の
しおちゃんをリスペクトしている。
人生の中で一番付き合いの長い自分と
人生最大の敵である自分としおちゃんは、
歩くちゅう塩ちゃんと多感な10代を生きてきた
「しゅり」とお互いを切磋琢磨しながら
これからの人生をエンジョイしたい。
最初の沖縄一周徒歩の旅で心の出会いを
現す「温故知新」。
しおちゃんは、自分の原風景を訪ねる
新しい夢を見つけつつある。
ブログを始めて18年になる。
きっかけは、沖縄一周徒歩の旅達成と
その旅の最大サポーターだった親父の
他界だった。
最近気になって通算投稿数をチェックすると
1865回を数えていた。
18年続けている事に対しては
別に大した思いはないけど1865回の
数字には自分でもびっくりした。
しおちゃんは、自分自身を
支えている歩ちゅう塩ちゃんの存在に
感謝の気持ちでいっぱいになった。
本格的に歩きを始めた当時43歳だった
しおちゃんは、あれから沖縄一周を5回、
辺戸岬~喜屋武岬間ぶっ通し歩き、国道58号
鹿児島市内~種子島~奄美大島~沖縄本島徒歩の旅、
鹿児島市内から北海道宗谷岬までの日本縦断独り歩きの
夢実現を叶えた。
しおちゃんの人生で43歳の決断が無ければ
歩ちゅう塩ちゃんとの出会いはなかったと
思っている。
しおちゃんと別人格の歩ちゅう塩ちゃんは、
人生の師匠でもある。
現在は何か決断をする際は、
もう一人の自分である歩ちゅう塩ちゃんは
どう考えているのか判断を仰ぐようにしているので
思いつくままに行動していた若い頃に比べると
じっくり決断できるようになったとしおちゃんは
捉えている。
コロナ禍真っただ中の2020年6月日本縦断独り歩きに
一歩踏み出したが、様々な事態に巻き込まれ
結局達成したのは2022年6月だった。
しおちゃんブログのタイトルでブログを立ち上げ
歩きながら思いついたブログネタを歩ちゅう塩ちゃんの
頭で整理してアップしていた。
当初に比べると文章力も上達しているが、
満足レベルには、まだまだ遠く及ばない。
文章上達には小説を読むことだと教えられ
これまでどちらかと言えば伝記とか歴史本とか
自己啓発本を好んで読んでいたが読解力を高める為に
官能小説から始めると読書癖が身につき
小説を読む速度が速くなり理解力も深まっていった。
ブログ立ち上げ時は、個人SNSが発達して
いなかったので、先ずは妻や近い友人に紹介して
ブログ内容が伝わっているか確認していた。
ブログを立ち上げた一番のきっかけは、
親父が遺したノートだった。
自分の気持ちを包み隠さず綴っていた
内容に触れた時、親父の対する想いが伝わってきて
成長した子供たちが、しおちゃんブログを読んで
欲しいと願う父親としての想いだった。
高校卒業までの人生年数と同じ18年は、
新しい扉を開け人生の一歩を踏み出す時期
である。
継続は力なりと無我夢中を合わせて
「無我夢中」のしおちゃん造語も
「感道信歩」しおちゃん造語も
ブログがあったからこそ誕生した。
ブログプロフィールに書いた
しおちゃんの夢も大部分が実現した。
しおちゃんブログの立ち上げは
人生の大きな分岐点であり当時43歳の
しおちゃんをリスペクトしている。
人生の中で一番付き合いの長い自分と
人生最大の敵である自分としおちゃんは、
歩くちゅう塩ちゃんと多感な10代を生きてきた
「しゅり」とお互いを切磋琢磨しながら
これからの人生をエンジョイしたい。
最初の沖縄一周徒歩の旅で心の出会いを
現す「温故知新」。
しおちゃんは、自分の原風景を訪ねる
新しい夢を見つけつつある。
2025年04月07日
夢を諦めない
セカンドライフステージも生涯夢求

7月に生誕62歳になる塩ちゃんは、
人生二度目となる20代の新年度を迎えた。
60歳までのファーストライフの幼少期は、
那覇市崇元寺町の産婦人科で産声を上げ
石垣島に移り住み海星小学校に入学し浦添小学校に転校して
小学二年の三学期だけ通い三年生に進級するとき
首里にある開校三年目の新設校城東小学校で二学期まで
通い宮古島の平一小学校に転校した。
首里で生活している時、沖縄の本土復帰を体験した。
幼少期から甲子園に憧れていた野球少年は、
豊見城高校野球部の活躍や世界チャンプの具志堅用高さんの
活躍に一喜一憂していたごくごく普通の思春期を
過ごした。
出身地と聞かれれば宮古島と答えているが、
塩ちゃんにとって故郷と言えば、宮古島も
石垣島も首里の街並みもふるさとだと思っていた。
誰もがそうであるように幼児期の
記憶などあるはずがないけど明治新政府(1868年)
の誕生から95年、敗戦から18年なので
しおちゃんの親世代は戦争記憶が残っていたし
明治維新もそう遠い過去のような気がしない。
塩ちゃんは、戦争を知らない世代として
時代に翻弄される事無く平和の恩恵を受け育ってきた。
科学進歩の象徴の一つと言える
テレビは、物心がついた時から生活の一部として
楽しみ親しんでいた。
振り返ると幼少期は別れと出会いの繰り返しだったが、
当時の本音を言えば、転校するのが悲しくて寂しかったが、
野球を通じて知り合った仲間を始めとする
同級生との絆が塩ちゃんの人生を豊かにしてくれたと
思っている。
幼い頃に生活環境の変化を何度も体験した事で
出会いの縁を大切にする心が人一倍強くなったことで
県内外の人脈に恵まれたと思っている。
幼少期時代の体験が嫌だったので
子供たちは学童幼稚園、小中高と一回も転校させず
自宅も長女の高校進学と長男の小学校移転により
独身時代から住んでいたマンションを手放し
引っ越ししたので子供たちは沖縄を離れるまで
歩いて通学できる環境だったので父親としては
大満足している。
現在長女は、バンコクの職場で働き
独身貴族を謳歌している。
バンコク生活を始めて二年になるが
妻経由の報告になるがいつも楽しそうである。
10代で10か月の語学留学を体験した娘は、
そこで知り合った東南アジアの各国に国籍の違う
友人が存在する。
息子は兵庫県の大学に進学し今年三回期生になるが
浪人生活を体験した事で人間的の幅が出来たような気がする。
子供たちが、親元を離れたので
長年住んでいた国際通り周辺から妻の実家に近い
小禄に引っ越して夫婦二度目の新婚生活を
エンジョイしている。
子供たちが住んでいる頃は、夜の付き合いも多かったが、
還暦を過ぎたらこれまでの友人付き合いの執着を手放し
たまに近所に住む親友と二人で飲む以外は、よっぽどの
事がない限り飲み会に参加する事もない。
妻が一人で待っていると思うと出かけるのが
悪いと思う感情があり自分自身でもそんな心境の変化に
驚いてもいる。
首里城火災本殿消失により触発され長年温めていた
日本縦断独り歩きの夢を妻の了解を得て実現した事で
65歳までは、次なる徒歩の旅を封印していたが
宮古島市長選挙にチャレンジして大願成就を叶えた
親友に触発されて好奇心旺盛の精神が再燃したのを
妻に見抜かれた塩ちゃんは、封印していた思いを
開封して夫婦でこれからの夢を語る時間が増えた。
先月帰省した息子から改めて年齢を聞かれ
「お父さんは姿勢がいいし同年代に比べたら
若々しいしお父さんは人生を謳歌しているね」
と嬉しい言葉をもらい幸せな気分浸っていると
「お母さんもこれからは、子供の事より
夢を一番に考えて欲しいと思っている」
自分の息子ながらかっこいいと思った。
娘も留学した辺りから母親に対して
同様な発言を繰り返していた。
子供たちが離れた事で時間の余裕が出来た妻は、
毎週ネットオンラインで海外講師による英会話レッスンを
続けており二度目の新婚生活に入った頃から
自分の夢を良く口にするようになっていた。
塩ちゃんの人生がポジティブに語れるようになり
暗い過去の記憶もそれはそれで生きる糧になったと
思える様になり過去は変えられると悟った。
歩ちゅう塩ちゃんの語源は、歩く中毒から来ていて
きっかけは24歳の夏に出会った一冊の本だった。
バブル真っただ中の東京で不動産業に関わり
誘われて地元企業に転職した環境で25歳から31歳までの
殆どを選挙事務所に出向していた。
選挙事務所スタッフとして衆議院議員、参議院議員、
沖縄県知事、県議会議員、市町村議員の選挙事務所で
人脈を築くことができ当時一緒に働いていた仲間の一部が
現職議員として頑張っている。
人生光陰矢の如しだと感じるが
これからは、毎日が笑顔で暮らせるように
しおちゃんのこれまでの人生において
受けた恩を忘れずに感謝の念をもって
自分が幸せを感じる事で恩返しになると
思っている。

7月に生誕62歳になる塩ちゃんは、
人生二度目となる20代の新年度を迎えた。
60歳までのファーストライフの幼少期は、
那覇市崇元寺町の産婦人科で産声を上げ
石垣島に移り住み海星小学校に入学し浦添小学校に転校して
小学二年の三学期だけ通い三年生に進級するとき
首里にある開校三年目の新設校城東小学校で二学期まで
通い宮古島の平一小学校に転校した。
首里で生活している時、沖縄の本土復帰を体験した。
幼少期から甲子園に憧れていた野球少年は、
豊見城高校野球部の活躍や世界チャンプの具志堅用高さんの
活躍に一喜一憂していたごくごく普通の思春期を
過ごした。
出身地と聞かれれば宮古島と答えているが、
塩ちゃんにとって故郷と言えば、宮古島も
石垣島も首里の街並みもふるさとだと思っていた。
誰もがそうであるように幼児期の
記憶などあるはずがないけど明治新政府(1868年)
の誕生から95年、敗戦から18年なので
しおちゃんの親世代は戦争記憶が残っていたし
明治維新もそう遠い過去のような気がしない。
塩ちゃんは、戦争を知らない世代として
時代に翻弄される事無く平和の恩恵を受け育ってきた。
科学進歩の象徴の一つと言える
テレビは、物心がついた時から生活の一部として
楽しみ親しんでいた。
振り返ると幼少期は別れと出会いの繰り返しだったが、
当時の本音を言えば、転校するのが悲しくて寂しかったが、
野球を通じて知り合った仲間を始めとする
同級生との絆が塩ちゃんの人生を豊かにしてくれたと
思っている。
幼い頃に生活環境の変化を何度も体験した事で
出会いの縁を大切にする心が人一倍強くなったことで
県内外の人脈に恵まれたと思っている。
幼少期時代の体験が嫌だったので
子供たちは学童幼稚園、小中高と一回も転校させず
自宅も長女の高校進学と長男の小学校移転により
独身時代から住んでいたマンションを手放し
引っ越ししたので子供たちは沖縄を離れるまで
歩いて通学できる環境だったので父親としては
大満足している。
現在長女は、バンコクの職場で働き
独身貴族を謳歌している。
バンコク生活を始めて二年になるが
妻経由の報告になるがいつも楽しそうである。
10代で10か月の語学留学を体験した娘は、
そこで知り合った東南アジアの各国に国籍の違う
友人が存在する。
息子は兵庫県の大学に進学し今年三回期生になるが
浪人生活を体験した事で人間的の幅が出来たような気がする。
子供たちが、親元を離れたので
長年住んでいた国際通り周辺から妻の実家に近い
小禄に引っ越して夫婦二度目の新婚生活を
エンジョイしている。
子供たちが住んでいる頃は、夜の付き合いも多かったが、
還暦を過ぎたらこれまでの友人付き合いの執着を手放し
たまに近所に住む親友と二人で飲む以外は、よっぽどの
事がない限り飲み会に参加する事もない。
妻が一人で待っていると思うと出かけるのが
悪いと思う感情があり自分自身でもそんな心境の変化に
驚いてもいる。
首里城火災本殿消失により触発され長年温めていた
日本縦断独り歩きの夢を妻の了解を得て実現した事で
65歳までは、次なる徒歩の旅を封印していたが
宮古島市長選挙にチャレンジして大願成就を叶えた
親友に触発されて好奇心旺盛の精神が再燃したのを
妻に見抜かれた塩ちゃんは、封印していた思いを
開封して夫婦でこれからの夢を語る時間が増えた。
先月帰省した息子から改めて年齢を聞かれ
「お父さんは姿勢がいいし同年代に比べたら
若々しいしお父さんは人生を謳歌しているね」
と嬉しい言葉をもらい幸せな気分浸っていると
「お母さんもこれからは、子供の事より
夢を一番に考えて欲しいと思っている」
自分の息子ながらかっこいいと思った。
娘も留学した辺りから母親に対して
同様な発言を繰り返していた。
子供たちが離れた事で時間の余裕が出来た妻は、
毎週ネットオンラインで海外講師による英会話レッスンを
続けており二度目の新婚生活に入った頃から
自分の夢を良く口にするようになっていた。
塩ちゃんの人生がポジティブに語れるようになり
暗い過去の記憶もそれはそれで生きる糧になったと
思える様になり過去は変えられると悟った。
歩ちゅう塩ちゃんの語源は、歩く中毒から来ていて
きっかけは24歳の夏に出会った一冊の本だった。
バブル真っただ中の東京で不動産業に関わり
誘われて地元企業に転職した環境で25歳から31歳までの
殆どを選挙事務所に出向していた。
選挙事務所スタッフとして衆議院議員、参議院議員、
沖縄県知事、県議会議員、市町村議員の選挙事務所で
人脈を築くことができ当時一緒に働いていた仲間の一部が
現職議員として頑張っている。
人生光陰矢の如しだと感じるが
これからは、毎日が笑顔で暮らせるように
しおちゃんのこれまでの人生において
受けた恩を忘れずに感謝の念をもって
自分が幸せを感じる事で恩返しになると
思っている。
2025年04月04日
新年度を迎えて

2025新年度が始まる
塩ちゃんの人生論で言えば、
生まれ変わりと言われる還暦後の60代で
7月に62歳の誕生日を迎える2025年度は、
人生の20代となる。
60代の一年は、それまでの人生の
10年を一年単位とするので今年7月に
満62歳を迎えるので人生二度目の20代となる。
還暦を迎えた2023年度は自分を見つめ直す
神様から大きな試練を与えられたような
今振り返ってみると内面的には人生で最大級の
波乱万丈の一年だった気がする。
60年生きてきて自分の弱い部分を隠すことなく
正直に自分自身と塩ちゃんにさらけ出して事で
美徳だった我慢が間違いで嫌われる勇気が
どれほど大事なのか強く悟ることが出来た。
2024年度の10代は、春に一大決心をして
これまでの執着の大部分を手放し南国沖縄の炎天下で
農業に従事する事で心のストレッチに成功した。
そんな時期に故郷宮古島にUターンしていた
友人が、社会人生活で培った経験を生かすべく
大きな決断をした姿に塩ちゃんの新たな人生ドラマが
始動した。
日本縦断徒歩の旅を達成して65歳までは
新たな自分の夢実現を封印していたが
弱火にしていたドリームチャレンジ精神の灯が
再燃していくのを塩ちゃんは感じていた。
妻には、そんな塩ちゃんの心を見抜かれて
「なぜ封印するの」鋭い言葉がしおちゃんの心に
突き刺さった図星だった。
2024年度は、「首里」と呼ばれていた
10代の頃と塩ちゃんが向き合った一年だった。
2025年度の新しい心の扉は、開く前から
希望の光が漏れているカタチがくっきりと
浮かんでいる。
生涯夢求の塩ちゃんは、生きている事が
楽しくて面白い。
人間修業をしているお陰かもしれない。
人間ってイイネ。
2025年03月30日
歯の健康

「人生目標」生涯自分の歯で食べる
これまでは、80歳までは自分の歯で
食べることが人生目標の一つだった。
若い頃は、60代になると勝手に
入れ歯が当たり前だと思い込んでいた。
心身ともに健康体で50歳を
迎えた時、それまでの既成概念の壊れる
音が聞こえていた。
老人は入れ歯が当たり前だと思っていたが、
誰に教えられた訳でもないのにどうしてそんな考えを
持っていたのか塩ちゃんは、自分に問いかけていた。
50歳前後だったのか記憶が曖昧ではあるが、
当時親交の深かった友人が、共通の友人である
同級生が入れ歯をしていると二人の内緒話として
聞かされたが、その時の塩ちゃんにとっては
どうでもいい話題だったが、一大事件のような
話をする友人に違和感を持った。
塩ちゃんにとって歯の健康は、
人生の大きなバロメーターである。
第一子が産まれ父親になった時期に
生まれで初めて右歯奥の上部に一つではあるが
銀歯になった。
とってもショックだったが、
白い義歯にすると費用が銀歯の倍以上との
見積もりに当時の塩ちゃんは、どうせ目だ無いからと
諦めの決断も早かった。
その教訓もあり定期的に歯医者通いを
するようになったが、それまで治療した詰め歯が
取れたりしてその都度若い過ちを悔んだりもしたが、
歯の健康だけは人一倍神経を尖らせていた
つもりだった。。
妻も幼少期の歯科治療に嫌な思いがあったらしく
子供たちに対する歯の手入れに関しては徹底していた。
若さに任せて暴飲暴食をしていた時代のつけが
歯の姿に現れていると自分に言い聞かせながら
これまでの人生で後悔は無く数え切れない反省ばかりだと
思っているが、奇麗な歯並びをしている人物に出会うと
尊敬の念が真っ先に浮かんでくる。
歯の姿は、人の生き様を感じさせてくれる。
最近ネット情報で歯科医院の数がコンビニより
多いと聞き驚きを禁じ得なかったが、
塩ちゃんなりに納得できた。
生きていく上で絶対に欠かせない
大きな関心事でもあるのに塩ちゃんは
自分で選択する歯科医院を他人事のように
粗末に扱っていた気がして猛省をしている。
自宅のある沖縄本島を長期で離れる際は
出発前に必ず歯科医院で検査する様にしていた。
今にして思えば、自分の担当医に対して少し
不信感を抱きつつも信じることが一番だと
自分に言い聞かせていた事が浅はかだったと知った。
日本人として政治に対して関心を持つ事は、
義務だと思っているので、社会人になってからは、
投票を棄権した事は一度もなかったが・・・
塩ちゃんとしては、今回の歯科検診のプロセスと
これまでの選挙候補者の選定が少し狭かったかも
と何故かそんな事を被瀬ながら少し判断材料の基準が
未熟だったと反省した。
選挙応援で宮古島滞在中に歯のアクシデントがあり
医師である知人に応急処置を依頼してもらい
その治療後に彼が発した言葉に良くも悪くも
強い衝撃を受けた。
滞在中に知り合った歯科医は
これからの人生を豊かにしてくれる
有意義な出逢いになった。
知人が持ち続けている宮古島に対する
愛情深い想いが彼の家族全員に浸透していて
奥さんや子供たちがそれぞれの立場で
活躍している姿にしおちゃんは感銘を受けた。
家族愛の奥深さを塩ちゃんに教示してくれた。
2025年03月23日
息子は父親の鏡

那覇空港にて
父親学校は永遠の学び舎
春休みで帰省していた大学生の息子が
自身が住む神戸に旅立った。
妻がこの日に合わせて年休を取っていたので
しおちゃんも那覇空港まで仕事を休んで夫婦で
息子の見送りをした。
空港に行く前にショッピング出かけた妻と息子から
連絡があり赤嶺駅で待ち合わせしたので
てっきりモノレールで来ると思っていたら
小禄ジャスコから二人は歩いてきた。
合流して駅の改札に向かおうとすると
空港まで歩こうと二人が言うので
塩ちゃんは、二つ返事で呼応した。
歩きながら塩ちゃんの家族は
歩くのが大好きだねと言うと息子が
「お父さんの影響でしょう」
その横で妻も共感していた。
お陰で空港までの道中たくさん会話が出来た。
今年22歳で大学三回生になる息子は
成長していて大人の階段を着実に上っていた。
一年の宅浪期間を経て上京して
自炊生活を始めたお陰なのか・・・
たまに会う息子の成長がとても眩しく感じながらも
心のどこかでは、まだ子ども扱いしている
自分に気づかされる瞬間がありその都度
反省をしている自分をもう一人の自分が
大人に成長した一人の人間だと
言い聞かせてもいる。
帰省中の息子と朝食のテーブルで
向き合っている時、母親とお姉ちゃんに対する
息子の言葉が塩ちゃんの頭から離れずにいる。
家族全員をリスペクト出来ると言い切り
海外で働く娘の行動力に対して間違いなく
お父さんの影響だねと彼は言葉にしてくれた。
お父さんもお母さんも読書家だし
お母さんは英会話オンラインレッスンを
続けているしお父さんも徒歩の旅を続けて
いるしお父さんは誰よりも
「人生を謳歌していると思うよ」
と言葉にしてくれた。
常に子供たちを一番に考えていたお母さんも
これからは、子供たちの事より
自分の夢を一番にもっと貪欲にやりたい事を
チャレンジして欲しいとまで言い切った。
会社員時代は、正月も殆ど仕事優先で
日常でも出張が多い上に仕事関係や友人などとの
外食も多く休みの日でも自分の趣味を楽しんで
ばかりだったと友達に指摘されることがあると
息子に聞くと幼い頃は、たくさん遊んだ記憶しかないと
口にしながら別に寂しいと思ったことはないけど
祖父の命日とか墓参りは一緒だったよねと言葉にした。
息子の成長は、父親の階段と言うのは
永遠の上りであるがと思っているので
辛いと感じた事が一度もないと感じながら
古い記憶の話を息子に語った。
息子が小学低学年時にいたずらして
塩ちゃんの携帯を冷蔵庫に隠した。
丁度エディマフィー主演の映画の
ワンシーンで子供が携帯を冷蔵庫に隠して
親子が戯れるシーンの真似をした息子のいたずらに
塩ちゃんの反応が弱く映画のようにもっと大げさに
反応しなかったことがずっと頭に残っていると
伝えると息子もよく覚えていると呼応して
二人は懐古話で盛り上がった。
小学校の修学旅行さえ覚えていないと
冷めた息子なのに・・・・
自分が思っているほど冷めた対応じゃなかったかも
知れないと単純な父親の心は弾んでいた。
老いては子に従えのことわざを胸の内に
秘めながら
父 「Lineに対して既読になるのが遅いと
お母さんが良く愚痴をこぼすよ」
息子「そうなんだ」
父 「Lineのやりとりでさえ嬉しいのに
電話で会話した後のお母さんは
幸福感で満ち溢れているよ」
「面倒くさいとかウザイとか思わずに
もっとタイムリーに反応しなさい。」
息子「わかった」
父 「自分では大人のつもりでも
大学を卒業して収入を得るまでは
半人前だよ」
息子「分かっているよ」
父 「初任給を貰ったらラーメンでいいから
ご馳走してくれる?」
息子「そのつもりだよ」
空港で息子の背中を見送りながら
塩ちゃんは一つの父親ステージを卒業して
新バージョンの父親学校に入学した。
2025年03月12日
父親記念日25年
妻が出産した年齢になる
娘が25歳の誕生日を迎えた
3月12日は、塩ちゃんにとって
父親記念日25周年になる。
昨年銀婚式夫婦記念旅行を
楽しむことが出来たのも子供たちが
順調に育ってくれたお陰である。
海外の日本企業に就職してから
7月で満二年になる娘は、経済面では
完全に自立して自分の人生を謳歌している。
無料で通話できるLine電話のお陰で
毎日のように妻と連絡を取り合っているので
彼女のバンコク生活が手に取るように
感じる事ができ日々小さな幸せを
塩ちゃんは共有する事が出来ている。
娘と電話のやりとりが出来なくても
近況を言葉にしている時の妻の表情が
いつも輝いているのでしおちゃんは、
それだけで満足している自分がいる。
昨日兵庫の大学に通う息子が
帰省した。
いい大人に成長した彼の姿が
とても眩しく感じて塩ちゃんは、
父親冥利を実感できた。
春から三回生に進級する彼とも
殆ど電話する事もなく親元を離れて
独り暮らしを満喫している様子なので
息子の近況も全て妻情報に頼っている。
昨年学校生活で悩んでいると妻から
聞かされて妻と息子のご機嫌伺いの目的を封印して
三人で温泉旅行をした。
それでも丸一日は、息子の部屋の大掃除を
したので親の気持ちは十分に伝わったと
夫婦で納得したつもりでは、あったが
それなりに世間同様に心配はしていた。
饒舌になっていた昨夜の息子の姿から
また小さな幸せを噛みしめていた。
25歳になった娘は、妻の母親記念日を
迎えた同じ年齢になった。
娘も息子も一人の人間として
立派に成長してくれている。
全て妻のお陰だと感じさせてくれる家族に
夫として父親として男として
感謝・感動・感激体験のプレゼントが
続いている気分になっている。
娘の名前は、「ほしの」と名付けた。
娘が高校卒業して海外留学に旅立つ日に
妻に預けた手紙があるがあれから7年の月日が
経っても変わらない父親としての想いがある。
名前を決める際に拘った文字が
「帆」だった。
イメージは、横風であれ向かい風であれ
帆船は、目的地に向かって帆を上手く利用して
航海する。
順風満帆ばかりではない人生の航海において
嵐の夜にはじっと耐える姿勢を持ち追い風ばかりを
求めるのではなくその時々の状態に一喜一憂するのではなく
逆風であろうが嵐で会っても立ち向かう勇気と
嵐が静まるのを待つ忍耐を持てる人間に育って欲しいと
願いを込めた。
塩ちゃんと妻が出会う前に偶然にも
共有する海外生活の夢を娘は叶えて実行している。
コロナ禍の期間、耐えてきた娘は
収束すると早い行動で自分の夢に向かって
一歩踏み出している。
今月末も海外旅行予定があるらしく
これからの日本人が理想とする海外に拠点を置き
そこから他国に旅行する第三国観光のモデルケースに
なれている気がして塩ちゃんは、父親冥利を飛び越して
一人の日本人として彼女のこれまでの行動に敬意を表したい。
娘よ25歳の誕生日おめでとう。
我が娘に生まれてくれてありがとう。
産んでくれた妻に感謝。
我が息子に生まれてくれた息子よ
ありがとう。
家族に感謝
娘が25歳の誕生日を迎えた
3月12日は、塩ちゃんにとって
父親記念日25周年になる。
昨年銀婚式夫婦記念旅行を
楽しむことが出来たのも子供たちが
順調に育ってくれたお陰である。
海外の日本企業に就職してから
7月で満二年になる娘は、経済面では
完全に自立して自分の人生を謳歌している。
無料で通話できるLine電話のお陰で
毎日のように妻と連絡を取り合っているので
彼女のバンコク生活が手に取るように
感じる事ができ日々小さな幸せを
塩ちゃんは共有する事が出来ている。
娘と電話のやりとりが出来なくても
近況を言葉にしている時の妻の表情が
いつも輝いているのでしおちゃんは、
それだけで満足している自分がいる。
昨日兵庫の大学に通う息子が
帰省した。
いい大人に成長した彼の姿が
とても眩しく感じて塩ちゃんは、
父親冥利を実感できた。
春から三回生に進級する彼とも
殆ど電話する事もなく親元を離れて
独り暮らしを満喫している様子なので
息子の近況も全て妻情報に頼っている。
昨年学校生活で悩んでいると妻から
聞かされて妻と息子のご機嫌伺いの目的を封印して
三人で温泉旅行をした。
それでも丸一日は、息子の部屋の大掃除を
したので親の気持ちは十分に伝わったと
夫婦で納得したつもりでは、あったが
それなりに世間同様に心配はしていた。
饒舌になっていた昨夜の息子の姿から
また小さな幸せを噛みしめていた。
25歳になった娘は、妻の母親記念日を
迎えた同じ年齢になった。
娘も息子も一人の人間として
立派に成長してくれている。
全て妻のお陰だと感じさせてくれる家族に
夫として父親として男として
感謝・感動・感激体験のプレゼントが
続いている気分になっている。
娘の名前は、「ほしの」と名付けた。
娘が高校卒業して海外留学に旅立つ日に
妻に預けた手紙があるがあれから7年の月日が
経っても変わらない父親としての想いがある。
名前を決める際に拘った文字が
「帆」だった。
イメージは、横風であれ向かい風であれ
帆船は、目的地に向かって帆を上手く利用して
航海する。
順風満帆ばかりではない人生の航海において
嵐の夜にはじっと耐える姿勢を持ち追い風ばかりを
求めるのではなくその時々の状態に一喜一憂するのではなく
逆風であろうが嵐で会っても立ち向かう勇気と
嵐が静まるのを待つ忍耐を持てる人間に育って欲しいと
願いを込めた。
塩ちゃんと妻が出会う前に偶然にも
共有する海外生活の夢を娘は叶えて実行している。
コロナ禍の期間、耐えてきた娘は
収束すると早い行動で自分の夢に向かって
一歩踏み出している。
今月末も海外旅行予定があるらしく
これからの日本人が理想とする海外に拠点を置き
そこから他国に旅行する第三国観光のモデルケースに
なれている気がして塩ちゃんは、父親冥利を飛び越して
一人の日本人として彼女のこれまでの行動に敬意を表したい。
娘よ25歳の誕生日おめでとう。
我が娘に生まれてくれてありがとう。
産んでくれた妻に感謝。
我が息子に生まれてくれた息子よ
ありがとう。
家族に感謝
2025年03月08日
人生の道

初心に返る
人生には、分岐点がある。
歩ちゅう塩ちゃんのこれまでの人生で
大きな分岐点の時期を三つ
挙げるとすれば、結婚した35歳
沖縄一周一人歩きを始めた43歳、
平成~令和の改元記念国道58号線徒歩の旅
をした55歳だろう。
人生を一緒に歩く決断をさせてくれた
妻との出会いから結婚。
24歳で出会った本の影響を受け
ずっと持ち続けていた沖縄本島の独り歩き。
そして55歳で鹿児島~種子島~奄美大島~
沖縄本島を走る国道58号線を花ちゃんと歩いた
徒歩の旅をきっかけに歩いて長年の夢を叶えた
日本縦断独り歩き。
それは全てしおちゃんの直感を大事にした
判断だった。
これからの人生の大きな分岐点になるであろうと
感じているのが、61歳の現時点だと思っている。
62歳になる7月の誕生日まで
未だ4か月もあるが、現在の年齢を考えると
塩ちゃんの理論である60代はこれまでの
10年がこれからの一年に匹敵するので
61歳の今の時期は、10代後半なのである。
人生二度目の思春期真っただ中に生きている
塩ちゃんは、生きる喜びを実感している。
しおちゃんには、本名の他に
幼い頃に両親や親戚に呼ばれた「かつ坊」
那覇から宮古島に転校した事で
名付けられた「首里」
30代で土建業から観光業に転身した際に呼ばれた
「塩ちゃん」がある。
本名で呼ばれることに対しては
殆どの人がそうだと思うが何も感じないが
「かつ坊」と呼ばれる事は幼い頃から
大嫌いだった気持ちは今も変わりはないが
今更どうする事も出来ないので仕方なく
付き合っている。
ニックネームではあるが、
「首里」と呼ばれることは名前以上に
愛着がある。
歩く事が大好きなしおちゃんに
歩く中毒だからと旅の友の花ちゃんが
名付けた「歩ちゅう塩ちゃん」も
首里と同様に愛着がある。
昨年末から宮古島に帰省した際
多くの同級生から「首里」と呼ばれて
人生の原風景に触れている感が強くて
とても心地よかった(笑)。
なので、塩川勝則の肉体には
「首里」「歩ちゅう塩ちゃん」と
ステータスが全く異なる
二人の男心が宿っている。
結婚も沖縄一周一人歩きも
自分の直感だった。
国道58号徒歩の旅では
出発前に宮古島に住む同級生が旅に対する
心意気に耳を傾けてくれたのが
塩ちゃんの歩き始めた最初の理解者だと
思い続けている。
彼はしおちゃんブログの名誉顧問であり
歩ちゅう塩ちゃんの原点を知っている親友でもある。
61歳になってしおちゃんは、
これまでの執着を手放して自分を
見つめ直すことに集中できた。
歩くと言う字は、少し止まると書く。
しおちゃんの61歳は、まさしく人生の道を
少し立ち止まる事が出来たと思っている。
昨年、ふるさと宮古島で再会した
同級生から「歩」と書かれた
はがきが届いた。
大好きな富士山と太陽に向かって
「止」の文字の底辺が両手を広げている姿に
未来の可能性が無限大だと伝えているかの
表現に感謝の気持ちが心から湧き上がった。
コロナ禍で中断していた
弓道と書道の復活を決意した時期の
グッドタイミングのはがきに
感謝・感動・感激を味わうと共に
しおちゃんの背中を強く押してくれた
10年後の塩ちゃんが61歳のしおちゃんに
感謝できるように笑顔溢れる日々の通過点として
62歳の誕生日を心身共に健康体で
自分の心のままに毎日を楽しく生きる事を
塩ちゃんと首里に誓う。
全ての出逢いに感謝
「感道信歩」byしおちゃん
2025年03月04日
故郷も心の親友
温故知新
「ふるさとは遠くにありて思うもの」
市民の審判が下るのを待つ事しかできない
その日の夕方しおちゃんは、幼い頃から
何度も訪れた市内を一望できる
カママ嶺公園の展望台に独り佇んでいた。
この日も精力的に動いている友人の姿を
見ていると切なくなってきたので一声かけると
彼の心境を語る言葉が返ってきた。
とても人間味のある言動に今更ではあるが、
これまで通り彼を信じることにした。
しばらくすると側に寄ってきて
「一旦家に帰って戻って来る」と
この期に及んでも甘えるどころか
塩ちゃんに気遣いの言葉を投げる友の心境に
胸が熱くなった。
独りになりたかったしおちゃんは、バイクを飛ばして
パイナガマビーチに行き向かいの伊良部島にある
牧山展望台を目指して伊良部大橋を走ったが、
あまりにも風が強いので引き返しカママ嶺公園の
展望台しかないと判断した。
これまでの経験から選挙事務所にどっぷり
遣っている時に勝利の手ごたえを感じる直感が
外れた事は一度もなかったが、友人の心境を
思いやると言い知れない嵐の前の静けさの
心境に向き合っている男になっていた。
告示の日に同級生の草野球チームのメンバーに
大歓迎されてその中の二人が満面の笑顔でしおちゃんに
接してくれたことが頭から離れられずにいたので
無性に声が聴きたくなったので電話した。
落ち着かないから展望台の景色に癒されているよと
口にすると「ロマンチックだなぁ」と言われた。
ナイスな反応に同じ空間で汗を流していた
純粋無垢な少年時代にタイムスリップした
しおちゃんは、心の原風景を覗いていた。。
ふるさとに立っているのに
「ふるさとの山に向かいて言うことなし
ふるさとの山は有難きかな」
石川啄木の詩と冒頭の
「ふるさとは遠きにありて思うもの」
と二つの言葉がフラッシュバックした。
「人事を尽くして天命を待つ」
勝利を確信していたからこそまさかのアクシデントが、
怖かったが滞在期間中この地にある三つの神様に
毎朝一日も欠かさず参拝してきたので神様は
見守ってくれていると信じ切っていた。
今日で仕事が終わるので、どのタイミングで
那覇に戻るか思案している時に公園の近所に
実家のある親友の一人が来たので正直な思いを
彼に伝えると澄んだ眼差しをしていた。
ふるさとの景色をしっかり目に焼き付けた
塩ちゃんは、親友のカタチがどんなものなのか
自分なりに悟りの境地みたいな気分になっていた。
親友と呼べる存在が、多数いる事で
これまでの人生を豊かに暮らせたと
感謝しても感謝しきれない気持ちを大切にしている。
塩ちゃんの人生理論では、
夫婦のように両思いでなくても自分の想いがあれば
疎遠になっても親友は親友だと思っている。
その時々で、親友といえども価値観の違いを
感じる事はあるし夫婦でも百パーセントの
価値観などありえないだから接する距離感より
心の距離感が大切だと気づいた時間だった。
心に温かい風を求めて脳裏に浮かんだ顔は
二人の少年野球仲間と一人の親友だった。
当選の瞬間から翌朝以降、
多くの親友から祝福の連絡が相次いだ。
友情に感謝。出逢いに感謝。
人間っていいなぁ。
生きている喜びを与えてくれる。
塩ちゃんの人生道の神様に感謝しながら
座右の銘を改めて心に刻んだ。
「感謝・感動・感激
-温故知新の心で-」
「感道信歩」
全ての道に感謝の気持ちがあれば
自分の信じた道を歩ける。
By 歩ちゅう塩ちゃん
「ふるさとは遠くにありて思うもの」
市民の審判が下るのを待つ事しかできない
その日の夕方しおちゃんは、幼い頃から
何度も訪れた市内を一望できる
カママ嶺公園の展望台に独り佇んでいた。
この日も精力的に動いている友人の姿を
見ていると切なくなってきたので一声かけると
彼の心境を語る言葉が返ってきた。
とても人間味のある言動に今更ではあるが、
これまで通り彼を信じることにした。
しばらくすると側に寄ってきて
「一旦家に帰って戻って来る」と
この期に及んでも甘えるどころか
塩ちゃんに気遣いの言葉を投げる友の心境に
胸が熱くなった。
独りになりたかったしおちゃんは、バイクを飛ばして
パイナガマビーチに行き向かいの伊良部島にある
牧山展望台を目指して伊良部大橋を走ったが、
あまりにも風が強いので引き返しカママ嶺公園の
展望台しかないと判断した。
これまでの経験から選挙事務所にどっぷり
遣っている時に勝利の手ごたえを感じる直感が
外れた事は一度もなかったが、友人の心境を
思いやると言い知れない嵐の前の静けさの
心境に向き合っている男になっていた。
告示の日に同級生の草野球チームのメンバーに
大歓迎されてその中の二人が満面の笑顔でしおちゃんに
接してくれたことが頭から離れられずにいたので
無性に声が聴きたくなったので電話した。
落ち着かないから展望台の景色に癒されているよと
口にすると「ロマンチックだなぁ」と言われた。
ナイスな反応に同じ空間で汗を流していた
純粋無垢な少年時代にタイムスリップした
しおちゃんは、心の原風景を覗いていた。。
ふるさとに立っているのに
「ふるさとの山に向かいて言うことなし
ふるさとの山は有難きかな」
石川啄木の詩と冒頭の
「ふるさとは遠きにありて思うもの」
と二つの言葉がフラッシュバックした。
「人事を尽くして天命を待つ」
勝利を確信していたからこそまさかのアクシデントが、
怖かったが滞在期間中この地にある三つの神様に
毎朝一日も欠かさず参拝してきたので神様は
見守ってくれていると信じ切っていた。
今日で仕事が終わるので、どのタイミングで
那覇に戻るか思案している時に公園の近所に
実家のある親友の一人が来たので正直な思いを
彼に伝えると澄んだ眼差しをしていた。
ふるさとの景色をしっかり目に焼き付けた
塩ちゃんは、親友のカタチがどんなものなのか
自分なりに悟りの境地みたいな気分になっていた。
親友と呼べる存在が、多数いる事で
これまでの人生を豊かに暮らせたと
感謝しても感謝しきれない気持ちを大切にしている。
塩ちゃんの人生理論では、
夫婦のように両思いでなくても自分の想いがあれば
疎遠になっても親友は親友だと思っている。
その時々で、親友といえども価値観の違いを
感じる事はあるし夫婦でも百パーセントの
価値観などありえないだから接する距離感より
心の距離感が大切だと気づいた時間だった。
心に温かい風を求めて脳裏に浮かんだ顔は
二人の少年野球仲間と一人の親友だった。
当選の瞬間から翌朝以降、
多くの親友から祝福の連絡が相次いだ。
友情に感謝。出逢いに感謝。
人間っていいなぁ。
生きている喜びを与えてくれる。
塩ちゃんの人生道の神様に感謝しながら
座右の銘を改めて心に刻んだ。
「感謝・感動・感激
-温故知新の心で-」
「感道信歩」
全ての道に感謝の気持ちがあれば
自分の信じた道を歩ける。
By 歩ちゅう塩ちゃん
2025年02月27日
夢ありがとう
友の背中から懐古(備忘録)
宮古島の喧騒から那覇に戻り
塩ちゃんは、少し立ち止まって
日本縦断徒歩の旅を思い返して
今だから言える備忘録を思いついた。
緊急事態宣言が解除され
旅の出発間に元同僚と栄町の
居酒屋で飲んだ。
まるでコロナ禍が終息しているかの
雰囲気の店内にしおちゃんは一抹の不安を
感じていた。
スタート地点の鹿児島で見た
沖縄とは違う市民の高い危機感の
空気だった。
観光として名高い門司・下関・錦帯橋・
広島の安芸宮島の客船乗り場の閑散とした
光景を目にしながらもコンビニなどは
日常を取り戻しつつあった。
ゴミも捨てられたしトイレも使用できる様に
なっていたが神戸から大阪・広島と歩いている時
東京・鹿児島の感染拡大とアメリカ独立記念日
パーティー発生と沖縄初となるクラスター発生の
報に触れた。
順調に歩いて神戸に着いた頃
街中の雰囲気の違いが肌感覚で
伝わってきた。
5月6月とコロナ感染者が全国でも
圧倒的に感染率が低かった沖縄での感染者は
今後歯止めが利かなくなるのでは不安を持った。
県外を歩いていて沖縄県内の目には見えないが
危機意識感がどうしても低いように感じていた。
そんなか中神戸~大阪~京都と歩いたが
市街地の空気感が全く違っていた。
京都祇園から琵琶湖のある滋賀県に向けて
歩き始めた土砂降りの天気でいくつかコンビニを
利用したが、ゴミ箱は使用不可になっており
勿論トイレは使用できなかった。
沖縄県知事が東京と鹿児島帰りの県民は
家族を含めた外出自粛要請の記者会見を知り
沖縄らしい判断と受け止めた。
(観光客のイメージダウンは避けられない)
しおちゃんは、歩いている時は
マスクをしていなかったが、人通りの多い道では
マスク着用は必須だった。
宿泊先に着くと洗濯一時間、その間に湯船で
その日の疲れをとりストレッチで身体のケアをして
いた。
昼間はコンビニなどで、手洗いうがいを
頻繁にしていた。
夜もくたくたなのでお酒大好きの
塩ちゃんでも身体がお酒を受け付けてくれない
状態だったことが幸いして睡眠が深かった。
いくら体調コンディションの調整には
自身があるとは言え目にする街の風景や
耳にする報道に不安もあったが絶対に
夢を絶対に実現する強い意識もぐらついている時に
京都選出で全国区の知名度を持つ二人のポスターを
目にして当時現職国会議員の野球部先輩に電話をした。
午前中の忙しい時間にも関わらず電話口に出た
先輩の声はとても張りのある声で
「SNS見てるよ頑張っているなぁ」
と声を聞いてから先輩に感謝の言葉を告げた後
何も言わないで「がんばれ」と言って欲しいと
お願いすると
「がんばれ・がんばれ・がんばれ塩川」
と言ってくれた。
その後、那覇に住む親しい二人の友人にも
電話を入れて同じようにお願いした。
しおちゃんは悩みながら歩いていると
雄大な琵琶湖の景色が目に飛び込んできた
タイミングで沖縄警察の要職にある幼馴染の
名前が携帯に表示され幸せな気分になった。。
道中で初めて聞く幼馴染の着信に
勇気が再燃する想いで耳を傾けると
「しゅり帰って来い」と一言放ち
彼なりの表現で旅の続行をあきらめる様に
促してきた。
彼の立場としての言葉には理解できる
部分もあったが、道中はじめて電話してきて
(これか?)と長い付き合いだからこそ
寂しくも感じた。
幼馴染と会話を交わした後、
沖縄観光業界の重鎮である親しい友人に
地元の空気感を確認した。
彼もLineグループの一人だったので
しおちゃんの状況を良く知っていたので
旅の続行を相談すると
「帰って来るのであれば、
東京からではなく名古屋ですね」
と強調された。
歩き続けているとウォーキングをしていた
年配の二人の女性と立ち話をすると
「東京には行かない方がいいですよ」
と真顔で言われた。
その夜は、お酒も飲まずコンビニ弁当を
部屋で食べながらテレビニュースをとネットで
沖縄の状況を確認しながら熟慮して就寝した。
翌朝、5:00に目覚めたしおちゃんは
断腸の思いで妻の携帯を鳴らした。
妻も丁度起きた様子だった
私「中断しようと考えているけど」
妻「いつ帰るの?」
私「帰るとしたら7月14日」
妻「太陽(長男)の誕生日だ!」
息子17歳の誕生日をしっかり失念していた
自分が情けなく思った。
私「そうだったね」「中断するよ」
と言葉にはしたものの・・・・
当時の西日本の天気は荒れていて
九州を離れて五日後には熊本豪雨があり
名古屋に向かう前日までは岐阜飛騨高山地方は
集中豪雨で天気は荒れていた。
それでも岐阜から名古屋までの徒歩の旅は
晴れていて那覇に帰る日の中部国際空港は
雨が降っていて沖縄についてから強雨になったと
テレビで知る。
京都から近江・長浜・大垣の徒歩の旅は
凄い雨でしおちゃんの靴は、防水加工が
されているとは言え靴下もびしょびしょで
その機能を果たせなかった。
中断を決断してからは、自分なりに納得している
つもりだったが、お天気が代弁してくれたのか
長浜~大垣に向かう道中に日本人なら誰でも
知っているであろう天下分け目の戦いと言われた
関ヶ原合古戦場決戦場跡を歩いた。
大勢の御霊が犠牲になった地で
塩ちゃんは言い知れぬ思いが頭を過ると共に
平和の世の有難みを噛みしめていた。
名古屋では、沖縄県の出先機関で働く
友人の後輩が迎えてくれた。
この日は日曜日だったので友人の後輩も
ホテルで待ってくれていて塩ちゃんも
翌日は歩く予定がないのでゆったりと
名古屋の夜を楽しんだが、それでも二時間が
限界だった。
名古屋で中断した事で再出発の際は、
愛知県沖縄郷友会の皆さんとも出会い
現在でも親交が続いている。
沖縄に帰る決断をグループLineにて
報告すると多数の人が良い決断をしたと
褒め讃えていたが、塩ちゃんの苦渋の決断を
理解している人達から個人Lineに温かい
メッセージが届いたことは生涯忘れられない
思い出となっている。
沖縄に帰り代議士の先輩を訪ねると
先輩「なぜ中断した?」
私 「コロナ禍の影響を考えて」
先輩「そんな事を言ったら何もできない」
その言葉を耳にして瞬間しおちゃんは
ハンマーで頭を殴られた気分になったが、
当時の判断が良かったのか?
たまに思い出すことがある。
追伸
降りしきる雨の中を歩き続けたのが、
原因で右足の五本の指は全部豆が出来
最悪の状態だった。
それでも踏ん張って歩けたかもしれないが
その体験があったからこそ歩き方改革に
取り組めたお陰で、名古屋から宗谷岬まで
両足とも痛める事が一度もなかったことは、
断腸の思いで中止決断を実行した事に対する
神様からのプレゼントだと信じている。
宮古島の喧騒から那覇に戻り
塩ちゃんは、少し立ち止まって
日本縦断徒歩の旅を思い返して
今だから言える備忘録を思いついた。
緊急事態宣言が解除され
旅の出発間に元同僚と栄町の
居酒屋で飲んだ。
まるでコロナ禍が終息しているかの
雰囲気の店内にしおちゃんは一抹の不安を
感じていた。
スタート地点の鹿児島で見た
沖縄とは違う市民の高い危機感の
空気だった。
観光として名高い門司・下関・錦帯橋・
広島の安芸宮島の客船乗り場の閑散とした
光景を目にしながらもコンビニなどは
日常を取り戻しつつあった。
ゴミも捨てられたしトイレも使用できる様に
なっていたが神戸から大阪・広島と歩いている時
東京・鹿児島の感染拡大とアメリカ独立記念日
パーティー発生と沖縄初となるクラスター発生の
報に触れた。
順調に歩いて神戸に着いた頃
街中の雰囲気の違いが肌感覚で
伝わってきた。
5月6月とコロナ感染者が全国でも
圧倒的に感染率が低かった沖縄での感染者は
今後歯止めが利かなくなるのでは不安を持った。
県外を歩いていて沖縄県内の目には見えないが
危機意識感がどうしても低いように感じていた。
そんなか中神戸~大阪~京都と歩いたが
市街地の空気感が全く違っていた。
京都祇園から琵琶湖のある滋賀県に向けて
歩き始めた土砂降りの天気でいくつかコンビニを
利用したが、ゴミ箱は使用不可になっており
勿論トイレは使用できなかった。
沖縄県知事が東京と鹿児島帰りの県民は
家族を含めた外出自粛要請の記者会見を知り
沖縄らしい判断と受け止めた。
(観光客のイメージダウンは避けられない)
しおちゃんは、歩いている時は
マスクをしていなかったが、人通りの多い道では
マスク着用は必須だった。
宿泊先に着くと洗濯一時間、その間に湯船で
その日の疲れをとりストレッチで身体のケアをして
いた。
昼間はコンビニなどで、手洗いうがいを
頻繁にしていた。
夜もくたくたなのでお酒大好きの
塩ちゃんでも身体がお酒を受け付けてくれない
状態だったことが幸いして睡眠が深かった。
いくら体調コンディションの調整には
自身があるとは言え目にする街の風景や
耳にする報道に不安もあったが絶対に
夢を絶対に実現する強い意識もぐらついている時に
京都選出で全国区の知名度を持つ二人のポスターを
目にして当時現職国会議員の野球部先輩に電話をした。
午前中の忙しい時間にも関わらず電話口に出た
先輩の声はとても張りのある声で
「SNS見てるよ頑張っているなぁ」
と声を聞いてから先輩に感謝の言葉を告げた後
何も言わないで「がんばれ」と言って欲しいと
お願いすると
「がんばれ・がんばれ・がんばれ塩川」
と言ってくれた。
その後、那覇に住む親しい二人の友人にも
電話を入れて同じようにお願いした。
しおちゃんは悩みながら歩いていると
雄大な琵琶湖の景色が目に飛び込んできた
タイミングで沖縄警察の要職にある幼馴染の
名前が携帯に表示され幸せな気分になった。。
道中で初めて聞く幼馴染の着信に
勇気が再燃する想いで耳を傾けると
「しゅり帰って来い」と一言放ち
彼なりの表現で旅の続行をあきらめる様に
促してきた。
彼の立場としての言葉には理解できる
部分もあったが、道中はじめて電話してきて
(これか?)と長い付き合いだからこそ
寂しくも感じた。
幼馴染と会話を交わした後、
沖縄観光業界の重鎮である親しい友人に
地元の空気感を確認した。
彼もLineグループの一人だったので
しおちゃんの状況を良く知っていたので
旅の続行を相談すると
「帰って来るのであれば、
東京からではなく名古屋ですね」
と強調された。
歩き続けているとウォーキングをしていた
年配の二人の女性と立ち話をすると
「東京には行かない方がいいですよ」
と真顔で言われた。
その夜は、お酒も飲まずコンビニ弁当を
部屋で食べながらテレビニュースをとネットで
沖縄の状況を確認しながら熟慮して就寝した。
翌朝、5:00に目覚めたしおちゃんは
断腸の思いで妻の携帯を鳴らした。
妻も丁度起きた様子だった
私「中断しようと考えているけど」
妻「いつ帰るの?」
私「帰るとしたら7月14日」
妻「太陽(長男)の誕生日だ!」
息子17歳の誕生日をしっかり失念していた
自分が情けなく思った。
私「そうだったね」「中断するよ」
と言葉にはしたものの・・・・
当時の西日本の天気は荒れていて
九州を離れて五日後には熊本豪雨があり
名古屋に向かう前日までは岐阜飛騨高山地方は
集中豪雨で天気は荒れていた。
それでも岐阜から名古屋までの徒歩の旅は
晴れていて那覇に帰る日の中部国際空港は
雨が降っていて沖縄についてから強雨になったと
テレビで知る。
京都から近江・長浜・大垣の徒歩の旅は
凄い雨でしおちゃんの靴は、防水加工が
されているとは言え靴下もびしょびしょで
その機能を果たせなかった。
中断を決断してからは、自分なりに納得している
つもりだったが、お天気が代弁してくれたのか
長浜~大垣に向かう道中に日本人なら誰でも
知っているであろう天下分け目の戦いと言われた
関ヶ原合古戦場決戦場跡を歩いた。
大勢の御霊が犠牲になった地で
塩ちゃんは言い知れぬ思いが頭を過ると共に
平和の世の有難みを噛みしめていた。
名古屋では、沖縄県の出先機関で働く
友人の後輩が迎えてくれた。
この日は日曜日だったので友人の後輩も
ホテルで待ってくれていて塩ちゃんも
翌日は歩く予定がないのでゆったりと
名古屋の夜を楽しんだが、それでも二時間が
限界だった。
名古屋で中断した事で再出発の際は、
愛知県沖縄郷友会の皆さんとも出会い
現在でも親交が続いている。
沖縄に帰る決断をグループLineにて
報告すると多数の人が良い決断をしたと
褒め讃えていたが、塩ちゃんの苦渋の決断を
理解している人達から個人Lineに温かい
メッセージが届いたことは生涯忘れられない
思い出となっている。
沖縄に帰り代議士の先輩を訪ねると
先輩「なぜ中断した?」
私 「コロナ禍の影響を考えて」
先輩「そんな事を言ったら何もできない」
その言葉を耳にして瞬間しおちゃんは
ハンマーで頭を殴られた気分になったが、
当時の判断が良かったのか?
たまに思い出すことがある。
追伸
降りしきる雨の中を歩き続けたのが、
原因で右足の五本の指は全部豆が出来
最悪の状態だった。
それでも踏ん張って歩けたかもしれないが
その体験があったからこそ歩き方改革に
取り組めたお陰で、名古屋から宗谷岬まで
両足とも痛める事が一度もなかったことは、
断腸の思いで中止決断を実行した事に対する
神様からのプレゼントだと信じている。
2025年02月23日
夢実現への道(回顧録)
一歩踏み出す勇気
(備忘録)
誰でも夢を持っていると思うが、
その夢を持ち続ける事ももちろん大事だけど
諦めないで先ずは一歩踏む出す事だと
これまでの自己体験から感じている。
友人がリタイア後の目標としていつも口にしていた
夢が現実となったのも常に言葉にして言い続けることの
大切さと退路を断つことで友人は手にすることが出来た。
選挙は、自分一人の力では絶対に勝利する事は
不可能だと誰もが知っているが、時に勘違いしている
姿の候補者をしおちゃんは、これまで何人も見てきたが
人それぞれの思いがある事も理解できる。
夢はあきらめなければ必ず叶う。
口にする事は容易いけど奥の深い言葉だと
しおちゃんは体験から知っている。
早期退職して長年持ち続けていた
日本縦断独り歩きの旅は、出発直前に発生した
まさかのコロナ禍による緊急事態宣言からの
外出自粛要請で2020年4月スタート予定は
延期を余儀なくされしおちゃんはいきなり
悩ましい壁にぶつかった。。
あのコロナ禍を迎えた時、しおちゃんは
ある意味面白い時代になったと感じていた。
その一つが人の本質を知る言い機会だと思った
なぜならその対応についてあまりにも
ネガティブなの人とポジティブも違いが
目についたからである。
当時を振り返りながらその考えが
間違いではなかったと
感じている今日この頃でもある。
出鼻をくじかれた時、しおちゃんを傍で
見守ってくれたのが、二人の友人だった。
緊急事態宣言が解除されたとは言え
収束の出口が見えないコロナ禍で世界中が
暗闇の禍に包まれていた。
日本政府は緊急事態宣言をしたが
ロックダウンの判断は取らずに三密を避けるとか
国民生活にゆとりを遺残しながらの自粛要請だった。
緊急事態宣言の解除を待ちしおちゃんは、
日本縦断の旅を敢行する事を二人の友人に報告した。
社会状況に不安を抱きながらも耳を傾けてくれる
二人に対して
「専門家によると完全に終息するには二年以上かかると
言う声もある中で俺は待てない。
とにかく一歩踏み出さないと俺は何の為に
早期退職までしたのか?」
二人の目を見ながら強く訴えた。
しおちゃんの言葉にHくんは
「そうだよなぁ」と頷きその言葉に
Nくんの同調を感じたので自分のグラスを
二人に向けた。
Nくんは、行政の最前線で豚コレラ対策から
コロナ禍対策と危機管理の先頭に立っていた
事もあり親友としてしおちゃんの夢を誰よりも
理解していた。
出発前に気の置けない仲間達にも
壮行会を開いてもらった。
本来ならば、一気に歩くつもりだったが
流石のしおちゃんも内心に持つコロナ罹患の
不安を表に絶対に出せないので妥協策として
今回は鹿児島から東京までの
「2020 日本独り歩き 塩ちゃん江戸上りの旅
三密を避け 三感を求めて」
※三感とは:塩ちゃんの座右の銘
「感謝・感動・感激 温故知新の心で」。
夢実現の一歩を踏み出す時、
コロナ禍なのにとネガティブ意識のある
反対勢力に対しての歩ちゅう塩ちゃんなりの
最大級の心遣いだった。
それも二人の友の理解が
心の支えになっていた。
二人の友が理解してくれたとしても
最終決済は、妻である事は間違いない。
出発前に
「奥さんは反対しないの?」
と長い付き合いの友人に言われた事を
妻に尋ねると
「貴方はやると決めたら実行する人だから
どうせなら気持ちよくチャレンジして欲しい」
と言われ男冥利に浸りながらも妻の言葉を受け
全ての不安が無くなった。
そんなタイミングで別の友人から
こんな言葉を受け取った。
「早く行きたいなら一人で行け
遠くへ行きたければみんなで行け」
しおちゃんは2021年に総理大臣に就任した
岸田総理が所信表明演説の最後に二度も連呼して
有名になった諺に友人から教えられた。
(備忘録)
誰でも夢を持っていると思うが、
その夢を持ち続ける事ももちろん大事だけど
諦めないで先ずは一歩踏む出す事だと
これまでの自己体験から感じている。
友人がリタイア後の目標としていつも口にしていた
夢が現実となったのも常に言葉にして言い続けることの
大切さと退路を断つことで友人は手にすることが出来た。
選挙は、自分一人の力では絶対に勝利する事は
不可能だと誰もが知っているが、時に勘違いしている
姿の候補者をしおちゃんは、これまで何人も見てきたが
人それぞれの思いがある事も理解できる。
夢はあきらめなければ必ず叶う。
口にする事は容易いけど奥の深い言葉だと
しおちゃんは体験から知っている。
早期退職して長年持ち続けていた
日本縦断独り歩きの旅は、出発直前に発生した
まさかのコロナ禍による緊急事態宣言からの
外出自粛要請で2020年4月スタート予定は
延期を余儀なくされしおちゃんはいきなり
悩ましい壁にぶつかった。。
あのコロナ禍を迎えた時、しおちゃんは
ある意味面白い時代になったと感じていた。
その一つが人の本質を知る言い機会だと思った
なぜならその対応についてあまりにも
ネガティブなの人とポジティブも違いが
目についたからである。
当時を振り返りながらその考えが
間違いではなかったと
感じている今日この頃でもある。
出鼻をくじかれた時、しおちゃんを傍で
見守ってくれたのが、二人の友人だった。
緊急事態宣言が解除されたとは言え
収束の出口が見えないコロナ禍で世界中が
暗闇の禍に包まれていた。
日本政府は緊急事態宣言をしたが
ロックダウンの判断は取らずに三密を避けるとか
国民生活にゆとりを遺残しながらの自粛要請だった。
緊急事態宣言の解除を待ちしおちゃんは、
日本縦断の旅を敢行する事を二人の友人に報告した。
社会状況に不安を抱きながらも耳を傾けてくれる
二人に対して
「専門家によると完全に終息するには二年以上かかると
言う声もある中で俺は待てない。
とにかく一歩踏み出さないと俺は何の為に
早期退職までしたのか?」
二人の目を見ながら強く訴えた。
しおちゃんの言葉にHくんは
「そうだよなぁ」と頷きその言葉に
Nくんの同調を感じたので自分のグラスを
二人に向けた。
Nくんは、行政の最前線で豚コレラ対策から
コロナ禍対策と危機管理の先頭に立っていた
事もあり親友としてしおちゃんの夢を誰よりも
理解していた。
出発前に気の置けない仲間達にも
壮行会を開いてもらった。
本来ならば、一気に歩くつもりだったが
流石のしおちゃんも内心に持つコロナ罹患の
不安を表に絶対に出せないので妥協策として
今回は鹿児島から東京までの
「2020 日本独り歩き 塩ちゃん江戸上りの旅
三密を避け 三感を求めて」
※三感とは:塩ちゃんの座右の銘
「感謝・感動・感激 温故知新の心で」。
夢実現の一歩を踏み出す時、
コロナ禍なのにとネガティブ意識のある
反対勢力に対しての歩ちゅう塩ちゃんなりの
最大級の心遣いだった。
それも二人の友の理解が
心の支えになっていた。
二人の友が理解してくれたとしても
最終決済は、妻である事は間違いない。
出発前に
「奥さんは反対しないの?」
と長い付き合いの友人に言われた事を
妻に尋ねると
「貴方はやると決めたら実行する人だから
どうせなら気持ちよくチャレンジして欲しい」
と言われ男冥利に浸りながらも妻の言葉を受け
全ての不安が無くなった。
そんなタイミングで別の友人から
こんな言葉を受け取った。
「早く行きたいなら一人で行け
遠くへ行きたければみんなで行け」
しおちゃんは2021年に総理大臣に就任した
岸田総理が所信表明演説の最後に二度も連呼して
有名になった諺に友人から教えられた。
2025年02月21日
宮古島で感じた時代波
時代の波を感じる
今回の滞在でふるさとに住む
人それぞれの反応に触れることが出来た。
宮古島にわたって
様々なネガティブな意見があった。
妻の承諾をもらっていたので
全てを有難く受け止めることにした
会合に出席するため宮古島に行き
選挙事務所や同級生の雰囲気に触れ
馴染めないと感じたので、
帰宅して妻に地元に任せるのが一番だし
お呼びじゃないかもと伝えると
一言「決めるのは貴方だから」
候補者激励を目的とした
応援意識を高めるためにLineグループを
立ち上げ情報を拡散するために
地元に住む近い友人に協力依頼をしたが
忙しくしているのか物足りなさを感じていた。
それでも日々自問自答していると
那覇に住む複数の同級生から
強く背中を押された事もあり
最終的に行く判断をした。
今回の滞在で大きく実感した事は、
自分自身の既成概念と固定観念の
変化だった。
「時代が変わったね」
しおちゃんは、50代を迎えてから
良く呟いていた。
その都度、職場の同僚から
「また呟いてますよ(笑)」
と何度も言われた。
それが、既成概念であり固定観念だった。
ネット社会の発展によりテレビ会議や
Lineなどで社員間や取引先でも情報交換が
スムーズになっていた。
コロナ渦によりオンライン会議の需要が
急激に伸びアナログ世代も好き嫌いに関係なく
SNS関連の時代の波に乗る事が急務となった。
情報伝達が容易になりこれまの常識が、
日々大きく覆されていた。
情報に遅れる事が少なくなり何よりも無料で
県外どころか海外からでもタイムリーに
連絡が取れるようになった。
しおちゃんは、好奇心旺盛の性格なので
時代の変化が嫌いではない。
「今の若い者」「俺たちの時代は」
とか表現する言葉が大嫌いではあるが、
何かの拍子にふと心を過ったりする事も
たまにあるがその都度、自分を戒める様に
している。
昔の選挙は、半沢直樹ではないが
「やられたらやり返す倍返しだ」
一般市民を置き去りにしたお互いの陣営に
どっぷり漬かった支持者を満足させる事が
当たり前の選挙手法だった。
今回の選挙でも、現職が一番有利なのは
誰の目にも明らかであるはずなのに
分裂した保守同士でも暗黙の選挙ルールを
守らない陣営の活動に触れもしたが
わが陣営だけは、絶対にそんな挑発に乗らない
空気が、後援会幹部も血気盛んな青年部にも
感じられた。
候補者と二人移動した時に車中で
「こんなことをしたら市民が離れるだけなのに」
と呟いた言葉を耳にして共感するともに
お互いの価値観の一致に独り納得していた。
そこに住む市民が、行政の責任者を選択するのが
選挙の目的なので品格や行政能力を見極める
判断材料をしっかり提供する事が一番だと
しおちゃんは、歳を重ねるたびに学んでいた。
61歳のしおちゃんは、この歳だからこそ
得られる「なにものにも替え難い」
素晴らしい出会いをたくさん体験した。
ふるさと宮古島は、神様から与えられた
素晴らしい自然環境と先人たちの汗と涙の賜物で
農業に適した肥沃な土地を残してくれた。
その昔、日照りが続くと成す術がなく
雨乞いの「クイチャー」を踊り歌っていたが
先人たちの素晴らしい発想で地下ダムが完成し
農業用水の確保に頭を悩まされることもなく
マンゴーやメロンなどに代表されるような
しおちゃんが育った時代からすると考えられない
作物が島を代表する作物になった。
宮古島の澄んだ海水を利用した雪塩などは
全国を旅したしおちゃんだからこそ知る
宮古島イコール雪塩を感じる体験を何度もした。
宮古島創業の企業として雪塩の成長は、
島に住む市民だけではなくふるさと宮古島を
愛する出身者にとっても夢と希望を与える
存在であると思っていて更なる発展の可能性を
秘めた企業になれると信じている。
伊良部大橋・来間大橋・池間大橋
それに道路や防波堤設備の建設工事で観光客が
飛躍的に増加した。
恩恵を受けて観光産業も大きく発展したが、
その反面、オーバーツーリズム問題がはっせいして
住宅問題や子育て環境など島民にとって
悩ましい問題が浮上したのである。
色んな意味で宮古島は大きな分岐点に
直面しているとしおちゃんは、肌感覚で実感した。
人頭税政策の不幸な歴史を持つ宮古島は、
生きるすべとして自助・共助が深く育まれた
離島であるが為にホスピタリティスピリッツの
高い気質を持っている人物が多く育った歴史を持つ。
だからこそ「あららがま精神」
宮古島の人間気質を表現する言葉があるが、
その境地になかなか辿り着けない。
自分の未熟さを受け止めながらも、
時代の移り変わりを素直に認める事の
できる人間でありたい。
今回の滞在で出会った若い世代の成長と
女性特有のたくましさから宮古島発展の
高いポテンシャルを感じた事を島内外の
多くの人に伝えたいと思った。。
2019年8月4日しおちゃんブログ
「宮古島観光の可能性」
https://shiokawa.ti-da.net/e12859064.html
今回の滞在でふるさとに住む
人それぞれの反応に触れることが出来た。
宮古島にわたって
様々なネガティブな意見があった。
妻の承諾をもらっていたので
全てを有難く受け止めることにした
会合に出席するため宮古島に行き
選挙事務所や同級生の雰囲気に触れ
馴染めないと感じたので、
帰宅して妻に地元に任せるのが一番だし
お呼びじゃないかもと伝えると
一言「決めるのは貴方だから」
候補者激励を目的とした
応援意識を高めるためにLineグループを
立ち上げ情報を拡散するために
地元に住む近い友人に協力依頼をしたが
忙しくしているのか物足りなさを感じていた。
それでも日々自問自答していると
那覇に住む複数の同級生から
強く背中を押された事もあり
最終的に行く判断をした。
今回の滞在で大きく実感した事は、
自分自身の既成概念と固定観念の
変化だった。
「時代が変わったね」
しおちゃんは、50代を迎えてから
良く呟いていた。
その都度、職場の同僚から
「また呟いてますよ(笑)」
と何度も言われた。
それが、既成概念であり固定観念だった。
ネット社会の発展によりテレビ会議や
Lineなどで社員間や取引先でも情報交換が
スムーズになっていた。
コロナ渦によりオンライン会議の需要が
急激に伸びアナログ世代も好き嫌いに関係なく
SNS関連の時代の波に乗る事が急務となった。
情報伝達が容易になりこれまの常識が、
日々大きく覆されていた。
情報に遅れる事が少なくなり何よりも無料で
県外どころか海外からでもタイムリーに
連絡が取れるようになった。
しおちゃんは、好奇心旺盛の性格なので
時代の変化が嫌いではない。
「今の若い者」「俺たちの時代は」
とか表現する言葉が大嫌いではあるが、
何かの拍子にふと心を過ったりする事も
たまにあるがその都度、自分を戒める様に
している。
昔の選挙は、半沢直樹ではないが
「やられたらやり返す倍返しだ」
一般市民を置き去りにしたお互いの陣営に
どっぷり漬かった支持者を満足させる事が
当たり前の選挙手法だった。
今回の選挙でも、現職が一番有利なのは
誰の目にも明らかであるはずなのに
分裂した保守同士でも暗黙の選挙ルールを
守らない陣営の活動に触れもしたが
わが陣営だけは、絶対にそんな挑発に乗らない
空気が、後援会幹部も血気盛んな青年部にも
感じられた。
候補者と二人移動した時に車中で
「こんなことをしたら市民が離れるだけなのに」
と呟いた言葉を耳にして共感するともに
お互いの価値観の一致に独り納得していた。
そこに住む市民が、行政の責任者を選択するのが
選挙の目的なので品格や行政能力を見極める
判断材料をしっかり提供する事が一番だと
しおちゃんは、歳を重ねるたびに学んでいた。
61歳のしおちゃんは、この歳だからこそ
得られる「なにものにも替え難い」
素晴らしい出会いをたくさん体験した。
ふるさと宮古島は、神様から与えられた
素晴らしい自然環境と先人たちの汗と涙の賜物で
農業に適した肥沃な土地を残してくれた。
その昔、日照りが続くと成す術がなく
雨乞いの「クイチャー」を踊り歌っていたが
先人たちの素晴らしい発想で地下ダムが完成し
農業用水の確保に頭を悩まされることもなく
マンゴーやメロンなどに代表されるような
しおちゃんが育った時代からすると考えられない
作物が島を代表する作物になった。
宮古島の澄んだ海水を利用した雪塩などは
全国を旅したしおちゃんだからこそ知る
宮古島イコール雪塩を感じる体験を何度もした。
宮古島創業の企業として雪塩の成長は、
島に住む市民だけではなくふるさと宮古島を
愛する出身者にとっても夢と希望を与える
存在であると思っていて更なる発展の可能性を
秘めた企業になれると信じている。
伊良部大橋・来間大橋・池間大橋
それに道路や防波堤設備の建設工事で観光客が
飛躍的に増加した。
恩恵を受けて観光産業も大きく発展したが、
その反面、オーバーツーリズム問題がはっせいして
住宅問題や子育て環境など島民にとって
悩ましい問題が浮上したのである。
色んな意味で宮古島は大きな分岐点に
直面しているとしおちゃんは、肌感覚で実感した。
人頭税政策の不幸な歴史を持つ宮古島は、
生きるすべとして自助・共助が深く育まれた
離島であるが為にホスピタリティスピリッツの
高い気質を持っている人物が多く育った歴史を持つ。
だからこそ「あららがま精神」
宮古島の人間気質を表現する言葉があるが、
その境地になかなか辿り着けない。
自分の未熟さを受け止めながらも、
時代の移り変わりを素直に認める事の
できる人間でありたい。
今回の滞在で出会った若い世代の成長と
女性特有のたくましさから宮古島発展の
高いポテンシャルを感じた事を島内外の
多くの人に伝えたいと思った。。
2019年8月4日しおちゃんブログ
「宮古島観光の可能性」
https://shiokawa.ti-da.net/e12859064.html
2025年02月17日
人生の出会いと別れ

市長選挙当選交付式の日 (のぼる朝陽)
人それぞれの命
昨年4月叔母の一回忌法要に
出席する為3年振りに宮古島に帰省した。
18で宮古島を離れしおちゃんは、
還暦を迎える年齢になっていた。
叔母は、亡き父のお姉さんで
幼い頃から自分の子供のように
とても可愛がって貰った。
しおちゃんは、男兄弟が居ないので
男4人の従弟の兄さんたちから
我が家の5男坊と呼ばれる程
可愛がって貰った。
昨年の帰省は、叔母の法要だけでなく
親友の親や野球部の一つ上の先輩と
2019年に人生初体験の全校生徒を前にして
「夢をあきらめない」のテーマで
講師として呼ばれた中学校の教頭先生と
小中高と同じ学び舎で学んだ一つ後輩の
仏壇に手を合わせた。
二人は、60歳と59歳だった。
その後7か所の墓参りをして。
那覇市会議員を引退して
上野村で農業をしている兄貴と久しぶりの再会を
果たした。
兄貴の現役時代は、青年部長として
いつも一緒だったので、2023年4月に県庁を
退職して宮古島副市長に就任した際に電話で
親友なので見守って欲しいとお願いしていたので
更なる支援と今後も見守って欲しいと対面で
お願いする事が一番の目的だった。
その時に兄貴の口から興味深い話が出たので
しおちゃんは大きな思いを胸に秘めることになりながら
兄貴の親父の仏壇に手を合わせた。
親友の選挙出馬に伴い昨年末から
宮古島に帰省にしてもたくさんの人間模様を
体験した。
コロナ渦2021年親戚の兄貴が64歳で
無くなっていた事を知った。
昨年末帰省した際に中学校以来の
再会を果たしその後、選挙集会で再々会した
同級生が急死した。
それから日を待たずして
浦添市現職議員の元職場先輩の
訃報を知る72歳と早すぎる死だった。
選挙戦の総決算ともいえる総決起大会を
二日後に控えた朝、親友から母親の死を知らされた
幼い頃父親を亡くし女手一つで三男一女を育てた
母親の死は親友にとってある意味命を懸けての
選挙戦最中の母親の死に深い精神的ダメ―ジを
受けている事は間違いないが、彼の目からは
強い覚悟の想いしか感じられなかった。
宮古島から那覇に帰省して最初の日曜日に
浦添の故人宅のまだ遺骨のある仏壇前で
故人の冥福を祈った。
昨年10月突然の病で長期入院して
二か月のリハビリを終え職場復帰した先輩を
訪問し無事回復できた姿を目にして
命の尊さを強く感じた。
その二週間後友人からの連絡で
元職場後輩の余命わずかだと知らされ
昨夜後輩の旅立ちを知った。
60代のこの歳になると
否応なく続々と悲報に触れてくる。
50代から「一回しかない人生」と
事あるごとに言い続けているうちに
形の見えない心の中で自分を大切にしていると
「人生は二度ある」と思ってきたが
故人たちとの別れからしおちゃんの感じた
考え方に間違いはなかったと確信を強く持てた。
還暦前の出会いはしおちゃんの二度目の人生も
「自分の人生の主人公は自分自身」の
続編なのである。
これからの毎日を笑顔溢れる人生を過ごすことが
しおちゃんの一回目の人生の自分に対する
最大級の恩返しになると胸に言い聞かせながら・・・
日本政府による緊急事態宣言前(2020年3月13日)
築地本願寺にて参拝カード(2020年3月)
にあった下記の言葉に出会う。
【出会いは、
人生を豊かにし、
別れは、
人生を深くする 】
意味:
どのような出会いや別れにも、
意味があります。自分自身が
その出会いや別れにどのように向き合い、
受け止めるかで、その意味は
大きく変わってきます。
2025年02月15日
祈 宮古高校甲子園

宮古高校野球場
I have a dream
親友の大願成就を見届けた翌朝
宮古島来島依頼毎朝のルーティンにしていた
宮古神社・漲水御嶽・アツママー御嶽に
最後の参拝をした。
滞在期間中一度も体調を崩すことなく
選挙活動に専念できた事そして保守系分裂になり
現職有利でスタートした選挙戦を制止
艱難辛苦を共にした仲間たちと新市長誕生の
瞬間に立ち会えたことに対して感謝の念を捧げた。
神社参拝後、人間形成の基礎となった母校
平一小・平良中・宮古高校の正門に行き
あの頃「首里」と呼ばれていた少年に
感謝の念を捧げて甲子園出場を目指して
汗を流した宮古港野球場のグランドに立ち
純粋だった野球少年時代の追想にふけた。
夜明け前の野球場に部室前に部員が居たので
野球部OB ですけどと挨拶をして
グラウンドに降りてもいいですか?
と尋ねるとすると部員は礼儀正しく応対して
「キャプテンに確認します」
一礼をしてグランドに入り外野を走っていた
キャプテンの側に行き走って戻ってきて
また礼儀正しく返答をしてくれた。
お礼をして球場を後にする際に
「夏の甲子園大丈夫ですか?」
と先輩風を吹かして訊ねると
「優勝して行きます(甲子園)」
力強い目力を持った男の言葉に
しおちゃんは確信を感じた。
秋の県大会では、全国トップクラスの
サウスポーを要する九州大会で優勝して
春の選抜出場を決めた沖縄尚学高校に
準決勝で惜敗した。
高校野球に詳しい親友の朗くんによると
沖縄尚学を一番苦しめた試合は宮古高校なので
九州でもトップクラスの実力があると聞いていたので
沖縄尚学戦で何故エースを温存したのか?
質問をするとしおちゃん世代には信じられない
回答が返ってきた。
夏の県大会までは、質問の答えは
しおちゃんの胸に閉まっておきたい。
しおちゃんの現役時代その秋季県大会決勝で
1点差で完封されたが優勝した興南高校は
九州大会で準優勝して甲子園出場を決めた。
昨年開催された九州大会では、
沖縄県大会で優勝した沖縄尚学と
準優勝したエナジック高校が
九州大会の決勝戦でも同校が対戦して
二校とも甲子園出場を決めた。
いつの頃からか九州大会は
各県2校出場となっている。
我々時代からも地元開催の際は
3校出場となっていてしおちゃんの
4期上の先輩たちは沖縄開催時に県大会の
3位決定戦で勝利し九州大会に出場した。
初出場した九州大会では、優勝候補の
佐伯鶴城高校を下しあと一つ勝利したらと
期待がかかった試合で長崎海星に敗れ
甲子園の夢は砕け散った。
そのチームは最後の夏の県予選で宮古港史上初と
なる決勝戦に残ったが、甲子園常連校の豊見城高校に
0対4で敗退した。
新チームになった翌年の夏の県予選でも
二年連続で決勝戦に残ったが最終回にサヨナラヒットを
打たれ0対1でまたしても念願の甲子園出場を果たせなかった。
あれから40年以上月日が流れて
宮古高校は、沖縄県内では強豪校としていつも
注目されているが、一度だけ甲子園とは無縁の
新人戦で優勝した事はあるけどそれ以来
決勝戦まで残った事はない。
しおちゃんの記憶をたどれば宮古高校が
沖縄県大会で決勝戦を戦ったのは5回ある。
しおちゃんの30年来の念願だった
宮古島市長誕生の感動の瞬間に立ち会えた翌日
母校のグランドに足を踏み入れたのは
勝利のご利益を運んでくることで甲子園初出場に
繋がると勝利の女神が微笑みながら野球場に
導いてくれたと確信を持った。
I have a dream
しおちゃんはまた多くの人に呼び掛けたい。
「宮古高校野球部の実力を信じて応援しましょう」
高校時代チーム歌った応援歌
中日ドラゴンズの替え歌
僕も貴方も願ってる
祈る気持ちで待っている
それは一言優勝だ
盛根監督の胴上げだ
いいぞがんばれ宮古高校
燃えよ宮古高校
2025年02月14日
お酒を嗜む
酒は百役の長」されど「万病の元」
お酒はどれくらい飲みますか?
沖縄県民のしおちゃん世代なら誰でも
少なくても質問を受けた事があるだろう。
しおちゃんが育った宮古島では
同じ質問でも受け止め方が全く異なる(笑)
社会人になって大人の付き合いには
お酒は欠かせないと若い頃に周りの先輩たちに
そう信じ込まされてきた。
振り返ると役に立ったことはたくさんあるが
残念なことにお酒の失敗も数多くある(笑)
県外出身者の多くは、
昨日飲んだお酒の量をグラス三杯とかお銚子日本とか
ビール瓶1本とか正確に答えることが出来る事が
若い頃は、その受け答えに感動したものだった。
しおちゃんの育った宮古島になると
最近の若者はどうか知らないが
二人でボトル1本とか10名で一升瓶3本とか
応えるのが精いっぱいでグラスの量になると
5名でオトーリをしたからそれが一周とか第二便とか
宮古島独自の表現となる。
宮古島で育ったしおちゃん世代は、
お酒を味わうとかではなくどれぐらいの量を
飲めるかとか最後までオトーリに付き合う事が
出来るかがその人の器の大きさを図る
手段と言っても過言ではない時代だった。
宮古島を離れ長く那覇で生活しているが、
若い頃は当たり前のようにオトーリを
している時があったが、それも始めるグループと
オトーリを好まないグループに分かれていた。
しおちゃんは、38歳の時に転職をしたので
オトーリ環境が激減したが、36歳で結婚して家庭を
持って油断したのかぶくぶく太って一度体重計が
90㌔表示を目にして終わったと思った(笑)
原因は完全にお酒だったそれから一念発起して
スポーツジムに通い80㌔前後まで維持する様に
なったが油断すると直ぐ85㌔にリバウンドした。
お酒が一番の原因だと思ってスポーツジムに
通っている時に手帳にビール一本でもお酒を飲んだら
手帳に記録を取るようになった。
一年目は240日で二年目は、180日。
三年目は、120日だったので満足して年配の友人に
自慢するとお前は三日に一回も飲んでいるのかと
びっくりした顔をされた。
確かに目標体重の75㌔を表示するようには
なったが油断をするとまた80㌔に戻ったりした。
43歳の時ずっと持ち続けていた沖縄本島一周独り歩きを
挑戦してから人生が一変した。
その後、しおちゃん独り歩きの旅は、
日本縦断まで発展してしまった。
しおちゃんは、43歳の自分に
いつも感謝の気持ちを持っている。
あの時の判断があったからこそ
自分の人生が豊かになったと信じている。
友人の選挙応援のため23日もお酒を断った、
あんなにお酒大好きの塩ちゃんでさえその間
一度もお酒を口にしたいと思わなかった。
お酒を一口も飲んでいないよと
お酒を誘う人たちに何度も言葉にする事が
自分への叱咤激励でもあった。
当選した翌日、瓶ビール一本をグラスに注いで貰い
飲んだがそれ以上飲むことはできなかった。
それがお酒だと言うより特別の
飲み物を飲んでいる気分だった。
高校時代で炎天下の野球場で汗を流した後
売店で口にした冷えたコカコーラを飲んでいる様な
懐かしい青春時代を思い出していた。
しおちゃんは、候補者ではないけど
夢実現した夢心地の気分になっていた。
宮古島を離れる前日、共に目標達成を目指した
友人と酒を酌み交わした。
彼らは、当たり前のようにオトーリを始めた。
5名の全員の前口上の挨拶を聞いていると
宮古島の文化も悪くないと錯覚していた。
久しぶりに宮古島で過ごした日々で
再会した多くの同級生から当たり前に
「首里」とあの時代のニックネームで呼ばれた。
しおちゃんは自分の原風景を懐かしくも
楽しんだ有意義な時間を過ごせた。
しおちゃんのお酒人生は、ただ多くの量を
飲めればかっこいいと勘違いした飲み方で
スタートしたが還暦を過ぎたこれからの人生は、
お酒大好きだからと言って加減の無い飲み方ではなく
自分が理想とする大人を目指してみたい。
「お酒はどれくらい飲みますか?」
聞かれたらこれからは
「嗜む程度です」言える男を目指したい。
お酒はどれくらい飲みますか?
沖縄県民のしおちゃん世代なら誰でも
少なくても質問を受けた事があるだろう。
しおちゃんが育った宮古島では
同じ質問でも受け止め方が全く異なる(笑)
社会人になって大人の付き合いには
お酒は欠かせないと若い頃に周りの先輩たちに
そう信じ込まされてきた。
振り返ると役に立ったことはたくさんあるが
残念なことにお酒の失敗も数多くある(笑)
県外出身者の多くは、
昨日飲んだお酒の量をグラス三杯とかお銚子日本とか
ビール瓶1本とか正確に答えることが出来る事が
若い頃は、その受け答えに感動したものだった。
しおちゃんの育った宮古島になると
最近の若者はどうか知らないが
二人でボトル1本とか10名で一升瓶3本とか
応えるのが精いっぱいでグラスの量になると
5名でオトーリをしたからそれが一周とか第二便とか
宮古島独自の表現となる。
宮古島で育ったしおちゃん世代は、
お酒を味わうとかではなくどれぐらいの量を
飲めるかとか最後までオトーリに付き合う事が
出来るかがその人の器の大きさを図る
手段と言っても過言ではない時代だった。
宮古島を離れ長く那覇で生活しているが、
若い頃は当たり前のようにオトーリを
している時があったが、それも始めるグループと
オトーリを好まないグループに分かれていた。
しおちゃんは、38歳の時に転職をしたので
オトーリ環境が激減したが、36歳で結婚して家庭を
持って油断したのかぶくぶく太って一度体重計が
90㌔表示を目にして終わったと思った(笑)
原因は完全にお酒だったそれから一念発起して
スポーツジムに通い80㌔前後まで維持する様に
なったが油断すると直ぐ85㌔にリバウンドした。
お酒が一番の原因だと思ってスポーツジムに
通っている時に手帳にビール一本でもお酒を飲んだら
手帳に記録を取るようになった。
一年目は240日で二年目は、180日。
三年目は、120日だったので満足して年配の友人に
自慢するとお前は三日に一回も飲んでいるのかと
びっくりした顔をされた。
確かに目標体重の75㌔を表示するようには
なったが油断をするとまた80㌔に戻ったりした。
43歳の時ずっと持ち続けていた沖縄本島一周独り歩きを
挑戦してから人生が一変した。
その後、しおちゃん独り歩きの旅は、
日本縦断まで発展してしまった。
しおちゃんは、43歳の自分に
いつも感謝の気持ちを持っている。
あの時の判断があったからこそ
自分の人生が豊かになったと信じている。
友人の選挙応援のため23日もお酒を断った、
あんなにお酒大好きの塩ちゃんでさえその間
一度もお酒を口にしたいと思わなかった。
お酒を一口も飲んでいないよと
お酒を誘う人たちに何度も言葉にする事が
自分への叱咤激励でもあった。
当選した翌日、瓶ビール一本をグラスに注いで貰い
飲んだがそれ以上飲むことはできなかった。
それがお酒だと言うより特別の
飲み物を飲んでいる気分だった。
高校時代で炎天下の野球場で汗を流した後
売店で口にした冷えたコカコーラを飲んでいる様な
懐かしい青春時代を思い出していた。
しおちゃんは、候補者ではないけど
夢実現した夢心地の気分になっていた。
宮古島を離れる前日、共に目標達成を目指した
友人と酒を酌み交わした。
彼らは、当たり前のようにオトーリを始めた。
5名の全員の前口上の挨拶を聞いていると
宮古島の文化も悪くないと錯覚していた。
久しぶりに宮古島で過ごした日々で
再会した多くの同級生から当たり前に
「首里」とあの時代のニックネームで呼ばれた。
しおちゃんは自分の原風景を懐かしくも
楽しんだ有意義な時間を過ごせた。
しおちゃんのお酒人生は、ただ多くの量を
飲めればかっこいいと勘違いした飲み方で
スタートしたが還暦を過ぎたこれからの人生は、
お酒大好きだからと言って加減の無い飲み方ではなく
自分が理想とする大人を目指してみたい。
「お酒はどれくらい飲みますか?」
聞かれたらこれからは
「嗜む程度です」言える男を目指したい。
2025年02月13日
61歳の還暦同窓会

塩ちゃんの還暦同窓会
那覇市で生まれたしおちゃんは、
9歳~18歳の高校卒業まで両親が生まれ育った
宮古島で生活をした。
沖縄本島では、旧暦の3月上旬、清明祭(シーミ―)
首里地域では御清明祭(ウシーミー)と呼ばれる
祖先供養の祭りが墓前で盛大に行われるが、
沖縄本島北部(伊江島)や久米島・先島諸島地域では
「ジュウルクニチ(旧暦1月16日)となっている。
琉球歴史に詳しいしおちゃんの師匠(弓道)によると
琉球全体は、元々ジュウルクニチの風習だったが
薩摩支配から清明祭に変り首里地域だけウシーミーと
呼ばれるのは、王宮があった為だと言い
首里城から遠く晴れた地域だけジュウルクニチの
風習が残っていると教示された。
妻は、糸満出身なので清明祭は門中墓の敷地で
お墓参りをする。
初めて義父母に付き添って
清明祭に参加した事があるが、
宮古島とは違う光景に驚きの感動を覚えた。
宮古島で育った10代は、両親の出身地である
城辺西城学区長間地区でジュウルクニチに
親戚と一緒に参加した。
個人墓にお墓参りをした後、近くの野原に
ブルーシートを広げそれぞれの家族が
歓談している様子を見て
「まるで運動会だね」と親戚の前で口にした記憶がある。
両親は生まれ育った出身地なので広場に集う全員が
顔見知りだった。
妻の門中墓に集う大勢の光景に触れ
凄い数だねと全員知っているの?
妻に問いかけると殆ど知らない人ばかりだと
言っていたが多くの人が義父に挨拶をしていた。
義母方の門中墓の規模は、
まるで地域の公民館広場の様だった。
清明祭の習慣がある地域では、
旧暦1月16日は、一年忌を迎える家庭の仏壇に
法要する慣習がある。
昨年、宮古島で平良中27既卒の
還暦同窓会は、旧16日のお墓参りに合わせて
開催された。
しおちゃんは、沖縄本島南部に
親父が眠る墓を管理しているのと
妻の実家親族の旧16日の法要があった。
その為、昨年ジュウルクニチに合わせた
日程だと出席は難しいと同級生に伝えていたので
しおちゃんの気持ちを察した妻が、
「自分がちゃんとするから同窓会に
出席して良いよ」
と言ってくれたので、同窓会に出席する為
一度は航空券を予約した。
予約をしたしおちゃんだったが
ジュウルクニチが近づいてくると家長としての
責任を最優先すべきだと判断したので、
妻に伝えると何も言わず納得してくれた。
還暦同窓会から7か月後、
同窓会幹事役の女子から連絡があり
還暦同窓会のYouTubeを妻と鑑賞した。
還暦同窓会会場の雰囲気を味わいながら
同窓会実行委員会の奮闘する姿に感謝の気持ちが
心から自然に湧き上がっていた。
那覇で生活するしおちゃんは30代から
暇さえあれば泡盛を酌み交わす気の置けない
二人の同級生が居た。
いつもお互いの近況や沖縄未来妄想図を
語り合っていたが40代後半になると
ふるさと宮古島も頻繁に話題の対象になった。
県庁職員の登さんは、
「リタイアしたらふるさと宮古島に恩返しがしたい」
がいつもの口癖だった。
2,017年夏、二人の親友(嘉数登・山里秀樹)
と日本一高い富士山の山頂に立った。
三人は、眩いご来光を拝みながら
それぞれの願いを心に誓った。
登山後、慰労会をしたが
お互いの願い事は、三人とも口に
出さなかったような気がするが
暗黙の了解はあったと思う。
それから月日が流れ、しおちゃんは
早期退職をして日本縦断独り歩きの夢を実現した。
会社役員だった山里さんも早期退職して
幼い頃からの夢を体験した。
2023年3月、県庁の筆頭部長だった登さんも
早期退職してふるさと宮古島市役所の
副市長に就任してふるさとの発展に貢献できる
立場になった。
副市長として自分の想いを果たしたかに見えた
親友は、変わりゆく故郷の発展を感じながらも
オーバーツーリズムなどの影響により市民生活の
未来に不安のある大きな悩ましい問題を
看過することが出来ず、副市長としての職務では
限界があると感じる事は
彼の性格を知る友として容易に想像できた。
自分の描いていた未来妄想図を未来予想図にして
夢実現する為には、議会承認の副市長ではなく
市民に選ばれる市長として宮古島丸のかじ取りを
するしかないと判断して市長選挙出馬する
一大決心だったのではないかと想像する。
副市長に就任してからはしおちゃんから
電話をする事があっても登さんに対する問いかけに
返信する事があっても直接の連絡は殆どなかった。
ある日の夜、山里くんと盃を酌み交わしながら
「宮古島に行ってから連絡がほとんどないので
寂しくないか?」
と愚痴をこぼすと山里くんは
「登は、仕事ができるからその辺の副市長より
激務にしていると思うよ」
と切り出してから
「地元の人たちと付き合い相談しているから
心配する事はないよ」
と納得しながらも二人とも言葉にしない
予感を感じていた。
居酒屋から帰宅したその夜に風呂から上がると
久しぶりに嘉数のぼると携帯電話に
着信の表示があった。
そのまま発信して呼び出し音が止むと
登さんは開口一番
「首里!俺決めたよ!
市長選挙に出馬する」
「良く決断した!尊敬するよ」
しおちゃんは、友の声を耳にして
湧き上がる情熱で興奮していた。
台所に立っていた妻は、
「宮古島に行くの?どれくらい?2週間ぐらい?}
との言葉に感動しながら
(行っても良いんだ?)
としおちゃんの心の声が聞こえたのか?
妻は続けて
「私もおにぎりを作りに行くからね!」
この日からしおちゃんの新しい人生ドラマが始まった
10月初旬に那覇市内の居酒屋で再会した。
公務出張のスケジュールを終えて遅れて来た
友は、開口一番
「今日、辞表を提出した」
と言葉にした彼の鋭い視線をみつめていると
「選挙は、勝たないと意味がない」
と強く言い切った。
しおちゃんの新しい人生ドラマが
いきなり最高潮レベルに達した瞬間だった。
副市長を退職してからも宮古島の状況が
伝わってこない事にもやもやしている
タイミングで登さんから相談が、
あった事を妻に伝えた。
その週末、洗濯物をたたんでいた妻が、
1か月ぐらいなら宮古島に行ってもいいよ」
しおちゃんは「ありがとう」と
口にしたあと頭の中で考える事がいっぱいになり
いつもの様に無口の塩ちゃんになっていた(笑)
その日の夕食テーブルで
投票日前の1か月でいいか?
と尋ねると妻は
「行くのであれば、今が一番だと思うけど?」
との言葉に
「今行ったら最後まで帰ってこないよ」
と返答しながらまた無口の塩ちゃんになった。
12月6日の同級生による推薦書交付式に
立ち会う為選挙事務所に向かう飛行機に
山里くんと二人で搭乗した。。
初めての選挙事務所訪問で事務所体制と雰囲気を
肌感覚で味わいどこか溶け込めない印象をもった。
地元に住んでいないしおちゃんは、
お呼びじゃないかもしれないと勝手に想像した。
選挙活動経験があるとは言えほとんどの
中心スタッフが選挙組織として初体験の人が
多い印象を持った。
その後、同級生の懇親会と滞在している間
積極的に多くの関係者から個別に話を聞くと
全員の高い目的意識を持っていると感じた。
心を一つにするための意識向上には
笑顔の絶えない事務所雰囲気が大事だと思ったが、
やはり地元で生活していないしおちゃんの役割だとは
思わなかった。
宮古島から帰宅して妻に
「地元の人に任せようと思うので
行かないので行かない事にした」
と報告すると妻は「それでいいの?」
とだけ言葉にした。
これまでのしおちゃんの行動を良く知る
数人の友人から背中を押されていると
宮古島出張から帰ってきた別の友人から
選挙事務所の雰囲気と候補者を交えた
数人の同級生との会話内容を聞き
俺も役に立てるかもしれないと決断をして
妻に伝えると快く決済をしてくれた。
宮古島に出発する前夜
(妻との約束)
①お酒を飲まない事
②毎日ひげを剃る事(若々しい恰好をする)
(しおちゃんの決意)
③後輩でも友人でも選挙事務所内では
誰であろうとさん付けで敬語を使う事。
④朝一番に事務所のカギを開け神棚に拝礼する事。
⑤宮古神社・漲水御嶽・アツママー御嶽を
毎朝参拝する事。
⑥般若心経の写経をする(完成5回)
⑦読書「嫌われる勇気」の再読
宣言した後YouTubeを覗くと
志村けんの名言に出会う。
「死んだらずっと寝れるから苦労しようぜ」
妻に面白い言葉を発見した事を伝えると
高校時代の先生も同じようなことを言っていたと
口にした。
日本縦断独り歩きの際に実行した
2:30起床3:30宿出発だった癖が
達成後も習慣化していたので
お酒さえ飲まなければ、全ての目標を実行できる
自信があった。
選挙期間中は、毎夜しらふなので
頭が冴えていても61歳の体力と
精神的な疲れがあるのか
ベッドで横になると数分で深い眠りにつけた。
一度5:45に目覚め毎朝のルーティンである妻に
モーニングコールで「寝坊した」
と言うと笑われてしまった。
友人の大願成就が叶った瞬間は、
これからの人生に大きな夢と希望を
与えられたしおちゃんの新しい人生ドラマは
最高のハッピーエンドで幕を閉じた。
那覇に離れる際に立てた目標も
7項目目の「嫌われる勇気」の完読(3/4)だけ
果たせなかった。
ジュウルクニチ墓参りを終え
ブログを書いていると昨年の今頃が
脳裏に浮かんだ。
不参加だった昨年の還暦同窓会の
残念な思いをリベンジするかのように
中学の同級生だけではなく高校の同級生、
それとしおちゃんはの両親と登さんの
出生地出である西城学区の同年代の仲間とも
知り会う事が出来た。
顔見知りだけだった同級生とも懇意になれたことは、
結果としてしおちゃんだけの最高のカタチで
還暦同窓会を神様からプレゼントされる
幸福感満載の宮古島滞在だった。
27期平良中生徒会会長上地成人さんを中心とした
同級生たちの連日連夜の支援活動には、
頭が下がる思いを強くすると同時に
我々世代が持つ親の介護とか家庭の
仕事を犠牲にして人それぞれが抱える悩みなど
微塵も感じさせない姿には
感謝・感動・感激の毎日だった。
また島で生活しているからこそある
目に見えないしがらみを抱えながらも
遠くから支援の声を送ってくれた同級生たちにも
感謝・感動・感激だった。
事務所には行けないけど!と前置きをしつつも
「登に入れたからね」と携帯電話から入る
同級生の声を何度も聞きその都度胸が熱くなり
涙をこぼれない様に頑張る自分の姿に
感動を覚えてもいた。
本日のジュウルクニチ親父が眠る墓前で
しおちゃんは、感動の宮古島滞在としおちゃん家族が
それぞれの夢実現に向けてしっかり前を向いて歩いている
現状を報告しながら感謝の気持ちを伝えた。
これまでは「生かされている」と自分に
言い聞かせてきたがこれからの人生は自分の為に
「生きる」と心に言い聞かせ
妻や子供たちを始めとするしおちゃんに関わる
全ての人々と幸せの時間を共有できると
希望する決意表明をした。
「人間っていいなぁ・・・」
しおちゃんを取り巻く全ての環境が
平和であって欲しいと強く願いながら
毎日が笑顔に満ちた人生でありたいと
首里もしおちゃんも塩川勝則の
三者三様の幸せのカタチをお互いに
支え合って生きていたい。
2025年2月13日 旧暦1月16日(ジュウルクニチ)。
2025年02月09日
人生は二度ある

宮古神社参拝
毎日が人生の始まり
2019年夏、「故郷宮古島・池間島・栗間島
伊良部島・下地島令和独り歩き」を達成した後
しおちゃんは「心の過去は変えられる」と確信を持った。
2019年と言えば平成から令和に改元した
歴史的な一年だった。
その年5月1日のGWに
しおちゃんは、沖縄県が戦後27年の
アメリカ占領下から本土復帰した
1972年5月15日に琉球政府道一号線から
日本国一般国道58号線と生まれ変わった。
鹿児島市内(700m)の通称朝日通りを起点に
奄美大島・沖縄本島を繋ぐ一般国道58号線は
沖縄県の本土復帰を象徴する国道を
「平成~令和改元記念特別企画
国道58号線徒歩の旅10日」
を実行した。
宮古島に長期出張している期間を利用しての
宮古島一周徒歩の旅は、池間大橋・来間大橋・
伊良部大橋を宮古島の先人たちが、建設してくれた
お陰だと感謝の気持ちを胸に抱きながら
歩く事が出来たとしおちゃんは
強く感じていた。
1982年3月に島を離れ人生の新しい門出の
1982年時点では、池間大橋計画がある事は
耳にしていたがその後、来間大橋・伊良部大橋を建設するなど
それこそ夢にも思わなかった。
当時のしおちゃんからすれば、沖縄本島から
遠く離れた宮古島に三本の橋が出来るなど
それこそ宇宙旅行レベルの話だと思っていた。
しおちゃんは、高校を卒業して
9歳から18歳まで育った宮古島を
夢と希望もあったが、どちらかと言えば
2度とこの島で生活したくないと言った
切ない気持ちを抱えたままの旅立ちだった。
友人が、宮古島市長選挙に当選して
熱狂と興奮が冷め止まない日付を跨いだ
その日の深夜選挙事務所を抜けて
同級生が集まった席で余韻に酔いしれながら
各自あいさつをしたが、その中の一人が。
「登さんのお陰でふるさと宮古島愛に
改めて芽生えた」
と口にして続けて
「正直言って18歳で宮古島を離れた時は
帰りたくない気持ちがあった」
人それぞれだと頭では理解していたが、
順風満帆な幸せな生活をしていると感じていた
友の過去の記憶にしおちゃんは衝撃を受けながらも
感慨深い気持ちになり人の人生を考えさせられた。
「一回しかない自分の人生の
主人公は自分自身だから出来るだけ
人生初体験に出来るだけチャレンジする」
そんな50代の人生目標を計画して殆ど
実行することが出来たしおちゃんは
達成感をいくつも体験することが出来た。
多くの友人知人からの応援もあったが、特に
「国道58号徒歩の旅」「宮古島一周徒歩の旅」
「日本縦断独り歩き」で立ち上げた
Lineグループ仲間からの声援は
しおちゃんの背中を強く押して頂けたからこそ
全ての困難も楽しみながら大きな夢を
実現することが出来た。
今回の宮古島滞在でも立ち上げた
「登くん応援団(在沖)」からもたくさんの
勇気と希望だけでなく筋書きのない人生ドラマを
味わうことが出来た。
登くん応援団(在沖)の最大目的は、
市長選挙に出馬した嘉数のぼるさんの一大決心を
仲間で支える事だった。
登さんの大願成就が叶ったあと
メンバーから発せられる祝福メッセージの
嵐に触れた瞬間幸せな気分にさせられ
感謝の気持ちでいっぱいになった。
還暦が、人生の生まれ代わりと言われている所以を
しおちゃんは、今回の宮古島滞在で悟ったような気がする。
人生は、一回しかないのではなく
それを強く感じた時こそ2回目の人生が
始まるのだとしおちゃんは強く確信した。
今回の宮古島市長選挙で関わった
全ての出会いに感謝するとともに
しおちゃん自身の2回目の人生の門出の
きっかけを当ててくれた登さんに
心から感謝します。
しおちゃんの座右の銘である
「感謝・感動・感激
温故知新の心で」
これからの人生でも引き続けて
大事にすることにする。
登さんメッセ
嘉数のぼるが訴えた思いに強く共感するのは
宮古島を愛する者なら誰もが持っていると思うのは
しおちゃんだけだろうか・・・・
『嘉数のぼる出馬表明挨拶』
ここで住みたい・ここで働きたい
ここで子育てをしたい・ここを誇りに思う
島を出てもまた戻ってきたい
そんな島にするのが、私の仕事です。
豊かさとは、暮らしが安心で、未来に希望が持てる事。
おじいちゃんおばあちゃんも、親も子も孫も、
この島で幸せを感じられることです。
宮古島はただの観光地じゃない。
ここには、宮古島で生きる人たちの想いが詰まっています。
だから私は、この島を守るために
全身全霊で働きます!
この宮古島を、次の世代にしっかりと引き継げる
場所にしましょう。
嘉数登と一緒に宮古島の未来を創る会
2025年02月07日
毎日が人生スタート

下地島空港
穏やかな日常
宮古島の選挙活動から自宅に戻り
半月が経ち今一番感じている事は
独りの時間が増えたと実感している。
仕事以外では、妻と過ごす時間が
大半を占めている。
自分のやりたい事を心置きなく
過ごした宮古島での日々は、しおちゃんの
頭の中では、すでに昔の思い出になっている。
宮古島では、新しい出会いが多く
特に若者たちと触れ合う時間や
旧知の仲ではあるが、親交を深めることが出来た
同級生の女性などとの再会はとても新鮮に
感じることが出来た。
歳を積み重ねることは素晴らしいと
声を大にして言いたい。
選挙事務所で頑張る幹部たちの殆どが
新世代で逆に彼らの親との付き合いが長く
変らない先輩もいれば、亡くなったり
車いすや療養中だと聞き人生の儚さを
感じたりもした。
同級生が市長になったお陰で
しおちゃんはとてもワクワクしている。
宮古島に住んでいなくても
あの人たちなら新市長を一生懸命支えてくれると
信じられる人物がたくさん存在しているので
先ずは一安心している。
しおちゃんの人生論では、還暦を過ぎた
61歳は、人生二回目の思春期だと思っていた。
多くの同級生からしおちゃんのニックネームである
「首里」と呼ばれ続けていると島を離れた18歳どころか
中学生高校生にタイムマシーンに乗っている気分になった。
宮古島を離れる時、とても晴れ晴れとした気分で
高校を卒業した時とは違った希望に満ちた
61歳になっていた。
しおちゃんのライフワークである
「歩き」は、これからも今まで同様に続けて行くが、
少し離れていた弓道や書道の稽古も復活する事を
考えている。
しおちゃん造語である
「無我継続」を思い出している。
しおちゃんの人生は、これからなのであり
毎日が人生のスタートだと思うことが
肝要だと思う。
しおちゃんのスケジュール表は
夢と希望で満ちている。
2025年01月31日
「黙」2025年頭漢字

当選証書授与式の朝に見たのぼる朝日
年頭の漢字
2025年漢字一文字は
「黙」
今年62歳を迎えるしおちゃん理論から
言わせれば人生2回目の20代となる。
2025年は、昨年末からの選挙活動で
スタートしたので正月気分を味わう事無く
過ごしてきたが、友人の大願成就を
見届けることが出来たので、この上ない
幸せの気分で旧正月を迎えることが
出来た。
妻の実家がある地域は
主に旧正月なのでしおちゃんは
年二回正月気分を味わうことが出来るので
お正月を飛び越しても旧暦でカバーできるので
ある意味幸せ者だと自分では思っている。
50代を迎えた時いくつかの人生目標を
設定した一つに「寡黙な男」を目指すと言っていた。
しおちゃんを知っている人は全員
鼻で笑って相手にしてくれないが
しおちゃんは、真剣なのである。
矢沢永吉のようなかっこいい60代70代を
目指してはいるが、高倉健のような雰囲気にも
憧れを持っている。
派手なパフォーマンスをしなくても
高い存在感のある姿が大好きなのである。
永ちゃんを意識して自分のことを
しおちゃんと呼ばせたりするが
宮古島で過ごしていた期間は同年代の
友人知人には「首里」と呼ばれていた。
同級生たちに「首里」と呼ばれるのは
とても居心地が良く、しおちゃんの人間形成に
大きく影響を与えた思春期時代を思い出して
純粋無垢な時代があったのかもしれないと
思うと同時に還暦を過ぎても健康体である事に
お天道様に感謝の気持ちでいっぱいになった。
高倉健さんの
「不器用な男ですから」
とのフレーズが大好きなのとその言葉が
ぴったりの彼の立ち居振る舞いに
長に頃からあこがれを持っていた。
高倉健さんは、任侠映画の役者として
一世風靡していたが180度イメージ転換をして
人間味あふれる俳優となり幅広い世代から
愛された俳優だった。
健さんは禁欲的で任侠道を貫く男と言う
イメージを壊さぬよう自らを律して酒も飲まず
筋力トレーニングを続けていたと聞く。
彼の背筋の伸びた立ち居振る舞いが
彼の生き方の証だとしおちゃんは思っている。
寡黙な男になりたい手段として
50代から禅と弓道を始めた訳も
心身を鍛えれば姿勢が良くなるかもしれないと
思っていた。
同年代の中には、還暦を過ぎて
「余生」をどう過ごすとか過去の
成功体験を語りネガティブな言葉を吐き
老人を感じさせる輩もいるが、
その反面、積極的に行動を興すタイプもいる。
確かに年齢的衰えを感じる事も少なくないが
過ぎ去った過去をあれこれ考えても仕方が無いのである。
「人間万事塞翁が馬」
人生はこれからだと考えている。
自分の人生の主人公は自分自身なのであるから
他人がどう思っているか考えること自体が
無駄なエネルギーだと思っている。
しおちゃんは多趣味だと良く言われるが、
好奇心旺盛なだけだと反論する。
歩く事、座禅、書道、弓道、農作業、
今年18年目になるしおちゃんブログなど
全てに共通する事は、独りで出来て
相手を必要としない。
「黙」
あの時から少し寡黙になったよねと言われる
そんな2025年令和7年になればと
しおちゃんの妄想が実現する事を祈念して・・・。